2014年05月12日

京都御所 朔平門外ノ変(猿ヶ辻の変) 姉小路公知卿暗殺

<昨夜亥の刻頃、退出懸け朔平門も辺にて武士体(てい)之者三人、白刃を以て不慮に及狼藉、手疵為相負逃去候に付、直に帰宅療治仕候。
但切付候刀奪取候。依て此段申入置候へば、厳重御吟味願入候。以上。
                      姉小路少将 >

1863年(文久3年)5月20日(旧暦)、尊攘派の急先鋒の公卿姉小路公知(あねがこうじきんとも・右近衛少将)は、宮中において午前より朝議に列席(通常の出勤は午前10時で退出は午後3時)、論議は沸騰し、退廷は亥の刻(午後10時、戌刻午後8時とも)になった。公卿門から三条卿と姉小路卿は前後してでるが、三条卿は左(南)へ、姉小路卿は右(北)へ曲がりでた。姉小路卿の供廻りは吉村左京、金輪勇(かなわいさむ・太刀持ち)、その他、提灯持ち、長柄持ちなどの下人が三、四人である。一行は今出川殿の屋敷前を通り、御所の西北角で乾門を左手に見ながら築地塀を右に曲がる。内側は女御(皇后)御殿である。皇后となる九条夙子(あさこ)は12歳で、のちに即位する孝明天皇の妃となるが、生まれた皇女は次々と夭折してしまい、中山慶子の生んだ皇子が明治天皇となっている。その女御御殿の正門が切妻造り四脚門の朔平(さくへい)門である。「朔」は北を意味しており、女御ら高貴な女性の参入退出のための門である。この朔平門前に差し掛かった姉小路卿一行は不意に刺客数人(3人)に襲われたのだ。
anekoji01.jpg   anekoji02.JPG
(左写真)京都御所西側築地塀 奥に公卿門(宜秋門ぎしゅうもん)公家の公務の際の通用門 奥の北方向に退出した姉小路卿 手前のこちらに退出したのが三条卿 (右写真)文久3年当時は朔平門の北東側近くに「猿ヶ辻」があり 現在とは異なっている 現在の長方形の形が完成したのは2年後以降の慶応年間 現在の「猿ヶ辻」付近は広大な有栖川邸だった
    anekoji04.jpg
 朔平門 奥は女御(皇后)御殿 姉小路卿の一行は写真に向って右から左に進行 朔平門付近の暗がりや側溝に忍んでいた刺客3名は一斉に斬りかかった 襲撃現場は写真左端の木の奥の築地塀辺りだ 今出川御門に近い桂宮邸方向から

<朔平門前にかかったとき、くらやみから刺客が無言で斬りかかってきた。もちろん不意であるから、初太刀で肩先を斬られた。「太刀をー」と叫んだが、太刀持ちの金輪勇は、ろうばいしたのか姿を消していた。(金輪勇は後日、京都町奉行に捕らえられ、慶応3年末に断首された。) 従士の吉村左京は賊に迫り、逃げるのを追った。このすきに、かねて策を立てていたらしく、他の刺客二人が姉小路にかかってきた。気丈と言われた姉小路は、手にしていた笏(しゃく)で防ぎ、面と胴を斬りはらわれながらも刺客に組みかかり、相手の刀をうばった。このとき吉村が引きかえしたので、刺客は闇の中に消えたのである。姉小路は鮮血にまみれながら、吉村左京の肩をかり、そこから五、六町ほどの自邸の玄関までたどりつくと、「まくらー」と言ったきり打ちふし絶命したと言われる。二十五歳であった。>
姉小路卿は玄関で倒れ絶命したため遺言もなく、同家はしばらく喪を秘して、姉小路自らの名をもって事の始末を伝奏に届け出た。それが上の「昨夜亥の刻頃」で始まる姉小路少将の署名が記された坊城大納言と野宮宰相中将にあてた文書なのだ。
anekoji05.jpg    anekoji06.jpg
現在の「猿ヶ辻」 (左写真)上塀の金網の中に鬼門(艮=うしとら)避けの木製の猿が烏帽子をかぶり御幣(ごへい)をかついでいる 日吉(ひえ)山王神社の使者なのだ 金網に閉じ込められている理由は夜になるといたずらをしたり うろつくため *艮=うしとら=東北の方角)

翌早朝、朔平門前から猿ヶ辻にかけての現場には冠のひも、笏(しゃく)の破片、黒々とした血痕、そして脇差につける鉄の笄(こうがい)が残されていた。三条卿の従士戸田雅楽(うた)ともう一人の実見者は現場から遺留品を集め持ち帰っている。その後の鑑定で、笄の造り、姉小路の奪った刀は薩摩のものと判明する。また姉小路家にかけつけた土佐脱藩士・那須信吾(土佐藩執政吉田東洋暗殺に参加)は、姉小路卿の奪った刀が薩摩藩の田中新兵衛の差料(さしりょう)と断言している。刀の銘は「奥和泉守忠重」(鍛冶名)で、その刀の説明入り絵図は、東京大学史料編纂所所蔵の「後示一覧」にある。
anekoji07.jpg  anekoji08.jpg
(左写真)姉小路卿が襲われた朔平門前はかなり奥(西)のほうだ (右写真)姉小路卿の邸付近(右奥)左は橋本邸跡(皇女和宮生誕地)

<その夜、同時に刺客が三条実美をもねらっていたのである。三条は公卿門を出ると姉小路とは反対に南の梨木町の自邸に向った。四人かきの駕籠に乗っていたある。わきには従士の戸田雅楽(尾崎三良)、今ひとり付添いのほか提灯持ち、傘持ち、下僕ら十余人の同勢であった。(略) 邸をさして清和院御門にかかると、門の隅に三人の人影があった。(略) その報告によると、三人ははだし、股立ち、たすきがけであり寺町を東へ走り去ったということであった。>
anekoji09.JPG  anekoji10.jpg
三条卿の駕籠での退出経路(左写真)御所正面にあたる南側築地塀と中央の建礼門 三条卿は奥からこちらに向う 当時左側は御花畠だった(右写真)三条邸は奥(東)遠く清和院御門が見える
anekoji11.JPG  anekoji12.JPG
(左写真)三条卿の邸宅のあった付近 (右写真)転法輪近くに建つ清和院御門 <門の隅に三人の人影があった。三人ははだし、股立ち、たすきがけであり寺町を東へ走り去ったという>

三条卿は、堂上(とうしょう)公家・清華(せいか)家で、父は三条実万(さねつむ)卿、兄の死去により嗣子(しし)となり、前年(文久2年)9月に従三位(じゅさんみ)権中納言となっていた三条家の正流である。三条家は傍流の正親町三条家と、分家の三条西家を区別するために、転法輪(てんぽうりん)三条家と呼称されていた。姉小路卿の家格は三条卿の下位となる堂上公家・羽林(うりん)家で、父は姉小路公前(きんさき)卿。前年(文久2年)10月、両卿は攘夷督促別勅使として江戸に東下、正使は三条実美で2歳年下の姉小路公知は副使であった。両卿は、江戸開府以来の勅使に対する礼遇をめぐって無礼と主張し改善を要求している。
姉小路卿暗殺の誘因は、当時からささやかれていた「幕府側からの籠絡」を受け、日米通商条約容認に傾いたことによるのだろう。「中山忠能日記」の5月9日条や村山斉助書簡の5月20日付(三条・姉小路が非常に穏やかになったようで甚だ不審)にその変移が伝えられている。それは、4月21日の将軍家茂の摂海巡見のための下坂に始まる。姉小路卿は諸藩の志士120余名を伴い4月23日に下坂。25日朝に軍艦奉行並・勝海舟の訪問を受け、摂海警衛の質問や進言を受けている。その日の午後からは幕府軍艦順動丸に乗り込み兵庫に向うが、その間にも勝と論議を長時間交わしている。通商条約容認派の勝の弁論に姉小路は魅了されたのだ。姉小路卿の帰京は5月2日。姉小路の同志だった東久世卿の後年の談話にも「帰京後は鋭鋒がくじけた」「武市半平太などは、姉小路様は幕府に籠絡されたとか言いました」と示されている。

事件翌日(5月21日)、御所内の学習院(1847年弘化4年3月に学習所として開講式)の扉に張り紙がしてあった。<転法輪三条中納言 右の者姉小路と同腹、公武御一和を名として実は天下之争論を好む者に付、急速隠居謹慎致さず候ては、旬日ならず天誅を加へ殺戮すべきものなり。>
   anekoji13.jpg  anekoji14.JPG
(左写真)当時は破約攘夷派のたまり場と化していた学習院跡  (右写真)北方向を望む 右側樹木の先に学習院 さらに姉小路卿の邸宅 当時は有栖川宮邸が奥突き当たりに見えていた

翌5月21日、朝廷は伝奏野宮宰相中将(定功)をして、姉小路卿の刺客捕縛の厳しい命令を発する。伝奏の命令は、京都守護職(会津・松平容保)から京都町奉行所、在京の各藩大名へ伝播する。同時に各藩に対し禁裏九ヶ門の警備を命じている。三条家に近い清和院御門には土佐藩が受け持ち、三条家の警護には土佐・薩摩二藩に各々10名の衛士の派遣を命じている。

土佐脱藩士那須信吾(同年8月に挙兵した尊皇攘夷派の天誅組の軍監 同9月24日戦死35歳)の証言で、刀の保有者が割り出されたが、その田中新兵衛こと田中雄平は、河上彦斎、岡田以蔵らとならび、「人斬り」と騒がれた薩摩藩士であった。姉小路卿横死を聞いた攘夷派志士らの悲憤は収まるところをしらず、肥後藩の轟武兵衛、宮部鼎蔵(ていぞう)、土佐の土方楠左衛門らが中心となり刺客探索を開始する。田中新兵衛の居所を突き止めたのは、土佐藩の吉村寅太郎(武市瑞山に師事し土佐勤皇党に名を連ねる。前年4月の寺田屋事件に連座し送還拘禁されていたが、姉小路卿暗殺の3ヶ月前の2月に再上京していた。同年8月の天誅組挙兵を公家中山忠光と主導するが、9月27日に自害。天誅組は壊滅する。27歳であった。)。吉村は乞食の体(てい)を取って追求したという。田中新兵衛は士族の出ではなく、薬種商人の息子。名目上、薩摩藩士・仁礼源之丞景範(にれかげのり・後に海軍中将)の家来となり帯刀を許されていた。手狭は京都藩邸から1町ほど北の東洞院通蛸薬師東の薩摩藩の買上げ屋敷(元は典薬頭の小森鉄之助の家)に、仁礼とともに居住していたところを探知されたのだ。京都守護職は、田中新兵衛発見の報告を受けるが、同じ公武合体派の薩摩藩に遠慮があり、朝命をもって呼び出す形で捕縛する。会津藩公用局・外島機兵衛が赴き、礼を尽くした上で主人仁礼と田中新兵衛、下僕の太平の3名を召し取ったのだ。事件の6日後の26日であった。
   anekoji15.jpg   anekoji16.jpg
(左写真)東洞院通側に置かれている薩摩藩邸跡碑 錦小路通側に門があったが東洞院通にも通用門が造られた 現在の大丸京都店の敷地とほぼ合致 (右写真)錦小路通側の門の付近
anekoji17.JPG   anekoji18.jpg
(左写真)東洞院通から御射山(みさやま)公園の向う側の田中新兵衛らの捕縛地を見る 元・森鉄之助の家は蛸薬師通に面していたと推定 (右地図)薩摩島津屋敷と買上げ屋敷の位置関係 

会津藩によって捕縛された仁礼と田中ら3名は坊城家まで連行されるが、直後に身柄は京都町奉行所に移送され取調べが始められる。江戸町奉行所は北と南に置かれていたが、京都町奉行所は東と西の名称である。1668年(寛文8年)7月に幕府は京都奉行所を正式に常置職としており(歴史学研究会編日本史年表)、京都所司代の指揮下で東西各々に与力20騎・同心50人を配置する。月番交代制で、姉小路卿暗殺事件当時は東町奉行所の担当月であった。*「全殉職者名鑑」の田中新兵衛の記述では西町奉行所となっています(詳細不明)。
東町奉行永井主水正(もんどのしょう)尚志によって田中新兵衛の訊問がおこなわれるが、田中は否認する。夕刻が迫る頃、姉小路卿が奪った刀が取り出されると、隙をうかがい、その脇差をもって腹・首を疵付け自決してしまう。その模様は、京都守護職への委細届出書によって明らかである。医師が呼ばれ、傷口を縫合する療治がとられるが深手のため叶わずと報告されている。田中新兵衛の名は「島津内蔵 三足人 田中雄平」と記されている。

<右ハ今廿六日御引渡御座候内ノ者ニ御座候。主水正御役所ニ為相控置候中、今暮前時分、自分帯居候脇差ヲ以テ、腹并(あわせ)首筋等疵付候ニ付、番之者共右脇差奪取早速医師呼寄、疵口為縫療治致候へ共、深手ニテ療生不相叶、相果申候間、組ノ者共検視為致候上、死体塩漬申付、尤番之者ハ、為相慎置、其段牧野肥前守殿ヘ申上、且私共儀心付方不行届、奉恐人候ニ付、控之儀伺書、御同人ヘ進達仕候。依之比段申上候。以上。 永井主水正 >
永井主水正尚志(なおゆき)は、1862年(文久2年)5月7日に東町奉行に着任し、定期異動は事件翌年の1864年文久4年)2月9日(2月20日に元治に改元)。作家・三島由紀夫の母方の高祖父にあたる。戊辰戦争では榎本武揚とともに函館で新政府軍と戦っている。1869年(明治2年)5月15日に降伏した。
永井と同じ任期で西町奉行に着任した滝川具知は、退任後に大目付に就き、1865年(慶応元年)初頭の天狗党降伏に際して、敦賀での空前の大量斬首を命令している。司馬遼太郎の「幕末」に収められた「猿ヶ辻の血闘」文春文庫版のP165では、永井は「西町奉行」と書かれている。他の作品では単に「京都奉行」と書かれていることがほとんどだ。
永井主水正の子孫である作家・三島由紀夫が書き送った手紙から
<(略)只今京都で勝新太郎と裕次郎と仲代達矢と四人共演の「人斬り」といふ映画に、田中新兵衛の役で出てをりますが、この役の交渉をうけてから面白くなって、この時代のものを大分よみました。よめばよむほど、現代との類似が目につき、こっちも多少、志士気取りになって来ます。明後日は大殺陣(おおたて)の撮影です。新兵衛が腹を切ったおかげで、不注意の咎(とが)で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が百年後、その新兵衛の役をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう。では又お目にかかる時をたのしみにいたします。怱々 > 鎌倉市浄明寺の林房雄に宛てた封書 1969年6月13日付け 
   anekoji19.JPG   anekoji20.jpg
東町奉行所跡碑 現在の奉行所跡の一部はNTT西日本壬生別館に 奉行所門は東側だったのだろうか 敷地西側に与力らの役宅が並んでいたようだ

この不祥事のため、奉行永井主水正は部下ともども各々に閉門、謹慎処分が申し渡されている。田中新兵衛の死により、事件は確証のないまま、時の流れの中に消え入ってゆく。田中新兵衛の知人・吉田嘿(曇華院宮の家士・読みは「モク」または「もだす」か?)によると、田中の刀は事件数日前に、三本木(遊郭)辺りの料亭(吉田屋か茨木屋)ですりかえられたものだという。また吉田嘿は、刺客がみせた狼狽ぶりに疑問を呈している。実戦経験の豊富な田中新兵衛がみせる態度ではないと。田中新兵衛が関与したと思われる暗殺事件は、島田左近(九条家家臣)、本間精一郎(攘夷派)、他6名の件である。
anekoji21.JPG  anekoji22.JPG
(左写真)東町奉行所跡の北側 (右写真)東町奉行所跡の西側と西町奉行所方向 右は二条城の外堀

この暗殺事件により嫌疑を受けた薩摩藩は、御所を追われ(乾御門警備解任・薩摩藩士御所九門内往来差止め)、一時的に主導権を失うが、同年8月18日の薩摩藩と会津藩(会津が主導)による中川宮親王を擁した「公武合体派クーデタ」で一挙に勢力を挽回し、三条卿を中心とした急進尊攘派勢力を追い落す。8月19日、長州藩は堺町御門警備の任を解かれ、京都から追放。軟禁(禁足)された三条実美卿ら公家7人は、東山・妙法院から長州へと落ちた(七卿落ち)。
anekoji23.jpg  anekoji24.jpg
薩摩藩下士・田中新兵衛(田中雄平 享年32歳)の墓所は東福寺の塔頭即宋院にある(非公開) 写真は開山堂付近(左奥に即宋院)
anekoji25.JPG   anekoji26.jpg
(左写真)御所東側の寺町通に総門を構える清浄華院 姉小路公知の墓がある

  anekoji27.jpg    anekoji28.jpg

参考
「維新暗殺秘録」河出書房新社1990年刊
「幕末維新全殉職者名鑑」新人物往来社1986年刊
「島津久光=幕末政治の焦点」講談社2009年刊
「歴史人」(雑誌)KKベストセラーズ2013年4月号
「京都時代MAP幕末・維新編」新創社2003年刊
「決定版 三島由紀夫全集38」新潮社2004年刊
短編集「幕末京都血風録」収録の「猿ヶ辻風聞」滝口康彦(故人)
posted by y.s at 19:36| Comment(0) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。