2014年05月29日

京都 陰陽師・安倍晴明の故地を訪ねて

安倍晴明(あべのせいめい 生年月日不詳・生誕地は大阪市阿倍野の伝承が有力)は、陰陽師・賀茂忠行を師として陰陽道を学び、平安中期の朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条帝の六代の帝(みかど)に仕え、その才能により信頼と名声を極めた稀代の天文博士・陰陽師です。安倍晴明が易占天文暦学を研鑽した「陰陽寮(おんみょうりょう)」は平安京の役所のひとつで、その組織は「陰陽頭」を頂点として、「陰陽博士」・「暦博士」・「漏剋博士」(水時計観察)・「天文博士」など部門が置かれていた。<天文博士安倍晴明>と「今昔物語集」に記されたその役職名「天文博士」(定員1名)の任務は、移り行く天文の気配をみて変異が現れれば密に封じ(密奏)、神通自在の術(予知など)を天文生(定員10名)に教導することにあった。ちなみに「陰陽博士」の定員は1名、「陰陽師」は6名、「陰陽生」は10名であった。陰陽師の役目は、筮竹(ぜいちく)で卦をたてて吉凶を占うことを主としていた。安倍晴明が通った役所「陰陽寮」の場所は、内裏の建礼門(南側の正門)を出たほぼ正面の区画に位置していた。では、一条帝に仕えていた頃の邸宅は何処であったのだろうか。安倍晴明の邸跡といえば、現在の晴明神社(堀川一条上ル西)の位置と信じられており、神社境内の説明板にも<東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売の各通りに及ぶ広大なものであった>と掲げられている。安倍晴明の業績を伝える史料(「小野宮右府記」「小右記」「御堂関白記」等々)のなかで、平安時代後期に成立した「今昔物語集」から、晴明について語られた部分、その邸宅の位置を示している部分をそれぞれ引用(関連する脚注も)してみる。
「今昔物語集」巻第十九<師に代りて太山府君の祭りの都状に入りし僧の事 第二十四>(岩波文庫P104より)
<< 而(しか)る間、安倍の晴明と云ふ*陰陽師有けり。道(=陰陽道)に付て止事(やんごと)無かりける者也。然れば、公け・私此を用(=重用)たりける。而るに、其の晴明を呼て、太山府君(=道教の神)の祭と云ふ事を令(せしめ)て、此の病を助て命を存むと為(す)るに、晴明来て云く、「此の病を占ふに、極(きわめ)て重くして、・・・(略)>>脚注ー*「陰陽師」<朝廷の陰陽寮の職員で、陰陽五行説」に基づく天文・暦・占相などの専門家>。

安倍晴明の邸宅位置を示しているのは、巻第二十四<安倍晴明、忠行に随ひて道を習へる語(こと) 第十六>にある一節。 (岩波文庫P287より) 
<<今昔(いまはむかし)、天文博士*安倍晴明と云(いう)陰陽師有けり。古にも不恥ぢ止事(やんごと)無(なか)りける者也。幼の時、*賀茂忠行(かものただゆき)と云ける陰陽師に随て、昼夜に此道を習けるに、聊(いささか)も心もと無き事無かりける。而(しか)るに、晴明若かりける時、師の忠行が下渡に夜行(=下京の辺に夜出かけた供をして)に行ける共に、歩(かち)にして車の後に行ける、・・・(略)・・・(P288)而る間、忠行失て後、此晴明が家は*土御門(つちみかど)よりは北、西の洞院よりは東也。其家に晴明が居たりける時、老たる僧来ぬ。(略)其の孫千今公(いまにおおやけ)に仕て、止事(やんごと)無くて有り。其土御門の家も伝はりの所にて有り。其孫近く成まで識神の音(こえ)などは聞けり。(略)>>
脚注ー*「安倍晴明」<安倍益材(あべのますき)の子。著名な陰陽師。天文博士。1005年没、85歳。続本朝往生伝・一条天皇伝や二中暦・一能暦・陰陽師に名が見えるのはもちろん、多くの逸話が伝わる。>
脚注ー*「賀茂忠行」<賀茂江人の子。著名な陰陽師。>
脚注ー*「土御門」<土御門大路=現在の上長者町通のこと(注:管理人) この居宅の位置から、晴明の子孫は土御門家を称した。子孫は吉平・時親・奉親など著名な陰陽師が輩出した。その家は代々相伝の邸宅。>
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<晴明が家は土御門(つちみかど)よりは北、西の洞院よりは東也>と示された場所は 現在の京都ブライトンホテルの敷地に該当する 現在は土御門大路は上長者町通と名を変えている 晴明の没後2年が経過した頃 一条帝は晴明を祀る神社の建立を命じている 1007年(寛弘4年)に晴明神社がこの地に建てられたのだ(生誕地とされる大阪阿倍野の安倍晴明神社の建立も1007年(寛弘4年)と伝えられる) 京都ブライトンホテルの正面玄関(東側)での写真は問題があり公開できないので当時(1990年)の備え付け絵葉書で代用 (右写真)巨大な吹き抜けのアトリウムロビー 宿泊した3階の回廊式廊下より撮影 改めて言うまでもないが 安倍晴明がここに屋敷を構え 流れゆく星雲を観察し世の変事を予知していたことなど 泊まった当時は一片の知識さえ持ち合わせていなかったのだ
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安倍晴明邸跡地にたつ京都ブライトンホテル(ツインルーム)
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(左写真)天文博士安倍晴明が永年通った「陰陽寮」跡(南側から撮影・右端のビルはNHK京都放送局) 道路全体(美福通は陰陽寮の敷地内)を含む左位置に「陰陽寮」が存在していた 内裏の建礼門は左奥の方向 「陰陽寮」付近一帯は江戸期には広大な京都所司代下屋敷の一部となった (右写真)「陰陽寮」と安倍晴明邸の位置関係(概略図)
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(左写真)平安京大内裏の案内板から 現在の街区との比較ができる (右写真)松原橋上から宮川町筋を望む 晴明旧跡として各所に塚(墓)の伝えが残されている 最初に葬られた場所が「五条松原鴨川の岸」 「新版都名所図会」の脚注によると<晴明社。明治初年廃。旧地は東山区松原通宮川筋東入北側、宮川町五軒目にあたる。>とある 写真奥の建物6〜7つ辺りに晴明社があったのだろう その先はこの世とあの世との境界である「六道の辻」に続く(松原通は平安京の五条通にあたる)

またこの「晴明塚」については、江戸期(1682年天和2年刊と推定)の山城国について書かれた地誌「雍州府志(ようしゅうふし)」(全10巻・著者黒川道祐)の「法城寺」の条に書かれている。漢文です<法城寺 在五條橋東北中嶋安倍晴明祈河水氾濫水立・・・(略)> 晴明が鴨川の氾濫を祈ったらたちまち水は去り、川岸に寺を建て法城寺と称し地鎮とした、晴明の死後、この寺に塚をもうけ葬る、と簡潔に述べられている。「雍州府志」をネットで読めるページがあるので紹介。http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=YA6-009-001-010-004&IMG_SIZE=&IMG_NO=30
この法城寺は、1607年(慶長12年)に、度重なる洪水の災難を避けるため三条橋東に移転し、寺名も「心光寺」と改称。晴明塚も改葬された。「心光寺」は、三条京阪駅近くの檀王法林寺に境界を接して東隣に現存している。山門は新麩屋町通側に面している。現在、晴明の墓は嵯峨・角倉(すみのくら)町(嵐電嵯峨駅の南方、長慶天皇嵯峨東陵の傍)にある。

以下は、安倍晴明生誕地として有力な大阪の安倍晴明神社について(伝承がほとんどだが)
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安倍晴明生誕地として有力候補である阿倍王子神社の境外社(飛地境内)である安倍晴明神社には 1005年(寛弘2年)9月の没後2年目に 一条帝が生誕地に晴明を祀る神社造営を命じたとの記録が残されている(「安倍晴明宮御社伝書」1180年治承4年) また神社に伝わる「葛之葉子別れ伝説」には 父親の名は「安倍保名」(あべのやすな)とあり 母親は「葛之葉」となってdいる
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(左写真)安倍晴明誕生地碑 江戸期の文政年間(1818〜1830年・将軍徳川家斉の代)堺の商人によって建立 (右写真)産湯井跡(証明する文献らしきものは江戸期の摂津名所図会)
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(左写真)安倍晴明神社内の晴明像 晴明の母親は白狐(びゃっこ)だったという「葛の葉伝説」を表しているのだろう(伝説話になると興味消滅)

安倍晴明は、一条帝の代の1005年(寛弘2年)9月26日に没した。死因は不明。85歳(推定)と云われる。晴明が撰者として残した「占事略决 (せんじりゃくけつ)」は陰陽道関連で最古となる983年の成立で、以降の陰陽師らにとって聖典といえる書物となった。
安倍晴明が没した時点で、何処に邸宅を構えていたのかが不明です。土御門大路に表門を構える屋敷だったのか。現在の堀川一条上ル西側に社殿を構える晴明神社の場所に移っていたのか。一条帝の命で、1007年に晴明邸の敷地に造営された晴明を祀る神社の場所を明確にする資料はあるのだろうか。安倍晴明の邸宅だった土御門の居宅の位置から、晴明の子孫は土御門家を称している。土御門の家は代々相伝の邸宅だったという記述も残る。現在、土御門の居宅の南半分の地名は「土御門町」となっている。
室町時代には安倍氏嫡流(直系)は、陰陽寮のトップである陰陽頭(晴明は陰陽頭までは勤めていない)を世襲するまでに昇りつめている。応仁の乱等の戦火を経て、晴明神社は古書・宝物等の全てを失い衰退してゆく。幕末期以降(1853年嘉永6年)になって、ようやく氏子らの願いにより晴明神社は同じ現在地にて再興されるのだ。現在の晴明神社の社域の150mほどの南側一帯の町名は「晴明町」であり、晴明神社の説明板には<晴明の邸は、東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売の各通りの及ぶ広大ものであった>とある(神社沿革では「古い資料」)。江戸期の地誌「出来斎京土産」の「晴明旧跡」の条に<晴明町は安倍晴明の古跡>と述べられている。
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現在の堀川一条上ル西側に社殿を構える晴明神社 近年、小説・映画等により安倍晴明ブームが作られ、観光客が押し寄せ境内付近は賑わいを見せている
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境内各所に陰陽道の基となる陰陽五行説の象徴としての星型の紋「五芒星」が配されている 五芒星(天地五行<木・火・土・金・水>)は宇宙万物の魔除けの呪符なのだ

参考
晴明神社HP http://www.seimeijinja.jp/ 沿革・由緒
「今昔物語集 本朝部」岩波文庫2001年刊
「京都時代MAP平安京編」2008年刊
「陰陽師安倍晴明」角川文庫1995年刊

posted by y.s at 10:23| Comment(0) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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