2014年05月30日

京都東山 下河原遊郭 噲々(かいかい)堂跡 村松剛「醒めた炎ー木戸孝允」より

時は間もなく明治を迎える幕末慶応3年、場所は土佐藩各士が贔屓にして出入していた八坂下河原の料亭「噲々堂」。村松剛の史料を縦横に駆使し、緻密に裏付けを重ねた歴史小説「醒めた炎ー木戸孝允」昭和54年5月6日〜昭和58年1月30日に日経新聞連載初出、単行本上下巻は中央公論社より1987年刊。この大作より噲々(かいかい)堂が舞台となる場面を抜萃。
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(写真)坂本龍馬ら土佐藩各士が出入した料亭噲々(かいかい)堂跡。

<<独創的な思想性は龍馬にはとぼしく、そのかわり脱藩浪人として苦労して来ただけに機を見る眼と周旋の才とは、彼は身につけていたのである。
後藤象二郎はこの案を見てよろこび、京都に到着するとすぐ宇和島藩や薩摩藩の要路を説いてまわった。
二人に数日遅れて土佐から佐々木三四郎(高行、大目付)が、京都に出て来る。彼は雷雨の日に東山の会々(噲々)堂で龍馬と会い、こんどは後藤をはじめ藩内の旧佐幕派までが大政奉還論に熱中しているから、何とか十分の芝居ができるといった。
龍馬は笑って、芝居ができるとは名言だといった。何でもよろしいから一芝居うてば、
ーーそれよりことがはじまるだろう。
蒟蒻(こんにゃく)の田楽を頬ばりながら、
ーー大政奉還を土佐藩が主張すれば、薩摩も土佐を信用する。
目を細めて、龍馬はいった。蒟蒻の田楽は、この店の名物である。>>
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<<会々(噲々)堂は池大雅の弟子の佐竹噲々がつくった店で、山猫茶屋として知られていた。
山猫は元来の名を山根子または山の子といい、高台院で晩年をすごした豊臣秀吉の妻北政所に奉仕した女藝(芸)人たちが、その発祥といわれる。
比叡山の僧侶たちが好んで彼女たちの踊りを見たことから、山の妓(子)の名が出た。
藝妓のなかではとびきり気位が高く、宴席に出ても客の上座に坐る。
 薩摩の家老小松帯刀はその山猫藝者の小筆を、土佐の福岡藤次(孝弟、参政)は美貌で名高いお加代を、谷守部(干城、小目付役)は小菊を、中岡慎太郎はお蘭を、それぞれ愛人にしていた。
この日佐々木三四郎とともに龍馬に会った毛利恭助(小目付役)も、のちに会々(噲々)堂のお玉を手に入れている。
薩長の藩士がおおむね祇園の美女たちを酒席に侍らせたのに対して、土佐は方広寺を根城にしていたという地理的な理由も手伝い、主として山猫が相手だった。福岡は維新後、髪結いの娘に生まれたお加代を正夫人とする。(略)>>
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下河原噲々堂跡付近見取図。

参考 「維新の京都」新人物往来社1986年刊
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posted by t.z at 14:52| Comment(0) | 京都kyoto | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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