(写真)坂本龍馬ら土佐藩各士が出入した料亭噲々(かいかい)堂跡。
<<独創的な思想性は龍馬にはとぼしく、そのかわり脱藩浪人として苦労して来ただけに機を見る眼と周旋の才とは、彼は身につけていたのである。
後藤象二郎はこの案を見てよろこび、京都に到着するとすぐ宇和島藩や薩摩藩の要路を説いてまわった。
二人に数日遅れて土佐から佐々木三四郎(高行、大目付)が、京都に出て来る。彼は雷雨の日に東山の会々(噲々)堂で龍馬と会い、こんどは後藤をはじめ藩内の旧佐幕派までが大政奉還論に熱中しているから、何とか十分の芝居ができるといった。
龍馬は笑って、芝居ができるとは名言だといった。何でもよろしいから一芝居うてば、
ーーそれよりことがはじまるだろう。
蒟蒻(こんにゃく)の田楽を頬ばりながら、
ーー大政奉還を土佐藩が主張すれば、薩摩も土佐を信用する。
目を細めて、龍馬はいった。蒟蒻の田楽は、この店の名物である。>>
<<会々(噲々)堂は池大雅の弟子の佐竹噲々がつくった店で、山猫茶屋として知られていた。
山猫は元来の名を山根子または山の子といい、高台院で晩年をすごした豊臣秀吉の妻北政所に奉仕した女藝(芸)人たちが、その発祥といわれる。
比叡山の僧侶たちが好んで彼女たちの踊りを見たことから、山の妓(子)の名が出た。
藝妓のなかではとびきり気位が高く、宴席に出ても客の上座に坐る。
薩摩の家老小松帯刀はその山猫藝者の小筆を、土佐の福岡藤次(孝弟、参政)は美貌で名高いお加代を、谷守部(干城、小目付役)は小菊を、中岡慎太郎はお蘭を、それぞれ愛人にしていた。
この日佐々木三四郎とともに龍馬に会った毛利恭助(小目付役)も、のちに会々(噲々)堂のお玉を手に入れている。
薩長の藩士がおおむね祇園の美女たちを酒席に侍らせたのに対して、土佐は方広寺を根城にしていたという地理的な理由も手伝い、主として山猫が相手だった。福岡は維新後、髪結いの娘に生まれたお加代を正夫人とする。(略)>>
下河原噲々堂跡付近見取図。
参考 「維新の京都」新人物往来社1986年刊
【関連する記事】
- 京都 薩摩藩定宿鍵屋跡 織田作之助「月照」より
- 京都 五山送り火 水上勉「折々の散歩道」より
- 京都 南禅寺三門 松本清張「球形の荒野」より
- 比叡山延暦寺西塔 弁慶伝説 海音寺潮五郎「源義経」・「吾妻鏡」より
- 京都祇園 料亭備前屋 織田作之助「それでも私は行く」から
- 京都 錦市場 荒木陽子「長編旅日記 アワビステーキへの道」より
- 京都三条木屋町 大村益次郎の遭難 「木戸孝允日記」より
- 京都・四条河原町 喫茶・築地 「荒木陽子全愛情集」より
- 京都宇治 萬福寺 水上勉「画文歳時記 折々の散歩道」より
- 京都 四条河原町 喫茶ソワレ
- 京都百万遍 梁山泊と思文閣MS 水上勉「画文歳時記 折々の散歩道」より
- 京都嵯峨野 竹林 谷崎潤一郎「朱雀日記」より
- 京都 八坂庚申堂 くくり猿
- 京都伏見 第十六師団第九連隊輜重隊跡 水上勉「私の履歴書」より
- 京都 山科 志賀直哉邸跡 「山科の記憶」より
- 京都 嵯峨院跡・大沢池 白洲正子「幻の山荘」より
- 京都河原町二条 香雪軒 谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」より
- 京都伏見 淀古城 谷崎潤一郎「盲目物語」より
- 京都八幡市 橋本遊郭跡 野坂昭如「濡れ暦」より
- 京都嵯峨朝日町 車折神社 谷崎潤一郎「朱雀日記」より

