2014年07月08日

京都 本能寺門前 竹苞書楼

押小路御幸町の角にある銭湯玉の湯と床屋のすぐ近くに暮らしていた頃、連日のように(通り道のため)立ち寄っていた古書の老舗「竹苞書楼(ちくほうしょろう)」。幅広い御池通を渡り(寺町通の信号を渡らざるをえないのだ)、寺町アーケードに入ると、まず視線は右角の天保3年(1832年)創業の和菓子の老舗・亀谷良永に。季節の菓子をチラッとながめて、視線はすぐ左側に山門を構える本能寺に移る。次に視線は本能寺の斜め向かいにある古書の老舗「竹苞書楼」に移るのだ。同じように視線を移動させ、文章に残した先人がいる。文学散歩の祖・野田宇太郎だ。「文学散歩第18巻」(1977年刊)から「竹包書楼」を記した部分を抜粋する。
<<寺町通りを南へ道幅の広い御池通りを横切ると、左側に織田信長の最期を語り伝える本能寺がある。その本能寺の山門の向い側に見るからに古風な竹苞楼という江戸時代から続く古書店がある。竹苞楼は佐々木姓で現在は六代目だが、初代の春重は銭屋儀兵衛について業を修め、寛延四年(1751)五月(六月より宝暦)頃の創業だという。上田秋成が寛政六年(1794)に著わした茶道に関する「清風瑣(さ)言」という二冊本もこの竹苞楼の出版で、その板木は今も保存されている。現在の建物は元冶年間に焼失したあと明治初年に再建したものときく。>>
野田宇太郎が書いた本能寺は、もちろん織田信長が明智光秀に討たれた当時の本能寺跡ではない。三十余の宿坊に囲まれた大伽藍(本能寺)は、信長の遺骸とともにすべて焼け落ち、その場所(現在の元本能寺町)に再建されることはなかった。本能寺が現在地に秀吉の都市計画(そのひとつが寺町の創建)に基づき再建されたのは、1589年(天正17年)になってからだ。<元冶年間に焼失>(1864年)を説明すると、幕末の戦乱<禁門の変>に伴う京の大火(どんどん焼け)で被災したものだ。ほぼ二条通から七条通まで(南北)が灰燼に帰した大火事だった。
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本能寺山門から見た竹苞書楼。アーケードのために明治初期の築と伝わる重厚な町家の全景は見えない。
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店頭左右に置かれた店舗名等が墨書された古い書箱(木箱)に魅せられる
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現在は古書籍全般の売買に携わっているが、店頭には和綴じの国学書が積まれている。野田宇太郎は<佐々木姓、現在は六代目>と書いたが、1975年刊行の吉田地図(京都の詳細地図出版社)には佐々木隆一氏の名が書き込まれている。店舗紹介にある現在の代表者は佐々木惣四郎氏となっている。
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(左地図)本能寺の位置は、北と方向を印した文字の所。江戸期までは広大で、境内は北側の御池通を越えて、現在の京都市役所もすっぽり本能寺領域に収まっていた。(右地図)長州勢が京から駆逐された禁門の変(蛤御門の変)直後の火災被害領域を墨書きした有名な瓦版。室町・江戸期の老舗はこの火災の被害を受け、大部分が建物を失っている。被災者が新地を造営したりして、現在の京都の姿に大きな影響を及ぼした「えらい迷惑な大火事」であった。
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posted by y.s at 01:14| Comment(0) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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