2014年07月11日

奈良 西ノ京 唐招提寺

天平の遠い時代の古寺から古寺を巡り歩くと、その時を重ねた美しさに陶然としながらも、あまりに神仏への不心得具合に茫漠とした感に支配されてくる。大阪から奈良へ向う近鉄の車内で、「大和古寺風物誌」(文庫版)に目を通して下準備を済ませたつもりでいるのだから情けない。
西ノ京駅に降り立ち、唐招提寺(とうしょうだいじ)への道を歩き始める。薬師寺を背にしてその真っ直ぐな道を進むと、外塗が崩れ落ちた築地塀が目に止まる。立ち止りカメラを取り出す。その荒廃した感がたまらなく好きなのだ。
さきほど読んだ亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」の「唐招提寺」の章を、所々抜き出してゆく。
<<薬師寺から北へ三丁ほど歩いて行ったところに唐招提寺がある。この道筋には古風な民家が散在し、その破れた築地のあいだより、秋の光りをあびて柿の実の赤く熟しているのが眺められた。燻(くす)んだ黄色い壁と柿のくれないとが、よく調和して美しい。また辺り一帯には松の疎林があり、樹間をとおして広々とした田野がみえる。刈入れのすんだところは稲束が積みかさねられ、畦道(あぜみち)には薄(すすき)が秋の微風をうけてゆるやかになびいている。すべて古の平城京の址である。>>
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右の唐招提寺の案内図によって伽藍の配置は理解できると思う。右下(東南)に東塔跡と表示されるのが、810年(大同5年)4月15日建立の五重塔跡。下側(南)が薬師寺方向になる。唐招提寺の境内の広さは創建当時と変わらない約2万坪。

<<唐招提寺には他のどんな古寺にもない独特の美しさがある。伽藍配置のかもし出す整然たる調和の美しさであって、わたしはそれをみたいためにやってくるのだ。奈良朝の建築の精華はここにほぼ完璧な姿で残っていると云ってもよかろう。希臘(ギリシャ)の神殿を彷彿せしむるような円柱の立ち並んだ金堂(こんどう)、平城京の朝集殿と伝えらるる講堂、及びその西側に細長く建っている舎利殿、小さく可憐な二階造の鼓楼、この四つの伽藍が秋の光りを一杯にうけて粛然と静まりかえっている状景は無比である。燻んだ御堂の柱や横木の間に塗られた白壁が、秋には一層映えて、全体として明るい華やかな感じにあふれ、寺院というよりは宮殿といったほうがふさわしいくらいだ。金堂の右側にある休憩所の辺に立つと、四つの堂を一望に眺めることが出来る。この四つの堂が奏でる壮麗な調和にいつも関心する。その一つ一つを切り離しては考えられないのである。>>
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南大門の奥正面に荘重にして優雅な姿で佇む金堂(国宝)。寄棟造・本瓦葺・造営年は諸説有る。江戸元禄初期の修理で屋根が2m以上高められた。
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金堂の南正面に有名な8本の列柱。壁や窓がない柱だけの構造を吹放し(ふきはなし)と呼ぶ。
<<金堂だけであったならば、あまりにもいかめしく重厚であろう。講堂のみを眺めると唐の宮殿のように華麗で、寺としての陰影に乏しい。鼓楼はそれ一つを離すとあまりに華奢であり、舎利殿は整備されすぎて古典の重みに欠ける。ところがこの四つの堂が揃うと、互に不足のところを補いあって、遂に欠点を見出せない、という不思議な効果をもった配置なのである。>>
<<鑑真の率いた弟子達がかような効果を当初から念願したのであろうか。或は大唐の文化に学び、数々の寺院を建てて、漸く円熟自在の境に入った天平建築家の感覚が、おのずからこうした状景をつくり出したのであろうか。乃至はもっと後代の作為なのか。それとも秋の光りの戯れなのか。 ー昭和17年秋ー>>以上、「大和古寺風物誌」ー唐招提寺ーより
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(左写真)奥正面が講堂(国宝)。左端に少し見える屋根が金堂。平城宮の宮殿の唯一残る遺構。平城宮の東朝集殿を移設したもの。移設された年月は諸説有る。創設者・鑑真和上の在世中に移設されたとする説が有力。(右写真)左写真から視線を右に少し送ったところ。現在は鼓楼と称される舎利殿(国宝)と南北に長い大きな建物が礼堂(らいどう)(重文)。舎利殿は明治末期の解体修理の際に、1240年(鎌倉時代・鎌倉大仏建立の2年後)の上棟と判明。
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(左写真)上2枚の写真からさらに右に向いた所。左端の建物が礼堂。その東側に外観の似た2棟の校倉造(あぜくらづくり)の蔵が立つ。写っているのが経蔵(国宝)。北側に宝蔵(国宝)がやや離れて並び立っている。屋根は寄棟造。(右写真)金堂に使用されていた創建時の瓦。金堂修理時に数えられた総枚数は4万枚だった。
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御影堂(重文)。1962年(昭和37年)に旧・興福寺一条院(江戸初期慶応年間築)の宸殿・玄関等を移築したもの。日本最古の肖像彫刻(弟子忍基らの制作)である唐招提寺を創建した乾漆鑑真和尚(わじょう)坐像(国宝)を安置してある。

鑒真(鑑真)和上の渡日に関する記述が「今昔物語集」巻第十一本朝・仏法の第八に語られている。平凡社「今昔物語集第1巻本朝部」(全6巻)東洋文庫から部分抜粋。
鑒真和尚(がんじんわじょう)、震旦(しんだん)より本朝に渡って戒律を伝える語(こと)第八 p29より
<今は昔、聖武天皇の御代に、鑒真和尚という聖人がおいでになった。この人はもと震旦の揚州、江陽(こうよう)県の人で、俗姓は涼(淳)于氏である。はじめ、大周の則天武后の代、長安元年という年に十六歳で知満禅師(ちまんぜんじ)という僧について出家し、菩薩戒を受けて龍興寺という寺に住み、年ごろ戒律をよく守って暮らしていたが、次第に年を重ねて老境に至った。(略)>
以下は要約。(聖武天皇は仏教界に正式に授戒した僧がいないことを憂い、導師を中国に求め、大安寺の栄叡と興福寺の普照の両師を派遣する。船出は天平5年733年4月3日であった。それから20年後・・・) 天宝12年(?)10月28日、鑑真は供を従え、栄叡(ようえ)とともに日本に渡って戒律の法を伝えようと龍興寺を出立する(6回目の試みと伝わる。その間に栄叡らは病死)。数ヶ月の後(遣唐使副使・大伴古麻呂の帰朝する官船で)、12月25日に薩摩国秋妻の浦に着く。そこで年を越し、天平勝宝6年(754年)1月、大伴古麻呂(従四位上)に託し都に奏上。唐僧鑑真、法進ら8人は都へ向う。鑑真らは2月1日に摂津国難波に着く。孝謙天皇は藤原仲麿を遣わして来意を尋ねる。鑑真は戒律の法を広め伝える旨を奏上する。天皇は、吉備真備(きびのまきび)をして、東大寺に戒壇を築き戒律を伝えよとの詔勅を下す。その後、ただちに東大寺の大仏の前に戒壇を築き(天平勝宝6年春)、鑑真を授戒の師として壇に登り戒を受ける(聖武上皇・皇后・孝謙天皇ら4百余名に)。その後は大仏殿の西方に別に戒壇院を建て(天平勝宝7年10月)、様々な人が壇に登って戒を受けた。皇后の病気に際しては鑑真が投与した薬が薬効あって平癒する。天皇は大僧正の位を授けるが鑑真は辞退する。改めて大和尚(和上)の位を授け(天平宝字2年)、さらに新田部(にいたべの)親王の旧地を鑑真和上に授ける。(天平宝字3年8月3日)そこに寺を建てたのが唐招提寺である。天平宝字7年(763年)5月6日、鑑真和上は顔を西に向け、結跏趺坐(けっかふざ=禅定の際の安座の仕方)して亡くなられた(77歳)。
*()内は、今昔物語集には記述が無い部分を注釈として付記。

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松尾芭蕉句碑。1688年(元禄元年)、松尾芭蕉が唐招提寺を参詣し鑑真和上坐像を拝した際、渡日の重なる辛苦から失明したことに心を寄せて句を詠む。<若葉しておん目の雫拭はばや> 芭蕉の句碑は境内食堂跡の旧開山堂脇に建っている。(右写真)詩人北原白秋の詩碑
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唐招提寺の最奥部にある鑒真大和上(がんじんわじょう)御廟。鑒真の文字が使われている。
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(左写真)鑑真和上御廟
参考
「大和古寺風物誌ー唐招提寺ー」亀井勝一郎 新潮文庫1953年刊
「古寺巡礼 奈良 唐招提寺」淡交社1979年刊
posted by y.s at 10:17| Comment(2) | 奈良 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
鑑真和上の弟子の1人に、如宝?という僧侶がいて、空海とも親しかったと言われていますが、彼はその後どのような生涯を送ったのでしょうか?
Posted by 定マニア at 2014年07月11日 10:59
こんにちわ 鑑真の弟子の如宝は、鑑真より約50年も長生きしているので、渡日した時は20歳?? はっきり言って分からないことだらけです。出身国から推測して金堂の柱に数行でも言及しようか考えたのですが、資料がなく断念(ギリシャの影響をもたらしたのは如宝だといえるのですが)。「日本後紀」に書かれていそうだが目を通していません。井上靖の「天平の甍」も読んでいないし、結局、観光風景写真になってしまいました。
Posted by 管理人 at 2014年07月11日 14:03
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