2014年09月17日

京都 六道珍皇寺(小野篁伝説) 澁澤龍彦「唐草物語」より

澁澤龍彦「唐草物語」に収められている「六道の辻」より
<<いまから十年ばかり前、晩夏のころだったと思うが、さらでだに暑い京の六波羅のあたりを、私は或る寺をさがして、炎天のもとにうろうろと歩きまわったことがあった。すでに記憶もおぼろげに
なっているが、しいて薄れた記憶の糸をたぐって、その日のコースを思い出してみると、たしか最初は三十三間堂の前の京都博物館に立ち寄ったのだった。むろん、なにを見たかは忘れてしまったが、そのとき私は六道絵に関するしらべもののために京都にきていたので、そこでも浄土教関係の展示物を見たのだったと思う。それからすぐ近くの養源院に寄ったのは、これは六道絵とはまるで関係がなく、ついでといっては申しわけないが、私の好きな宗達の杉戸絵にちょっと挨拶しておくためだった。>>
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(左写真)東山七条の京都国立博物館。方広寺境内跡に建設され、1895年(明治28年)竣工。1897年(明治30年)5月に帝国京都博物館として開館した。 (右写真)養源院山門から見た三十三間堂。右方向が京都国立博物館。 
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(左写真)養源院の案内板。伏見城落城の際の血染め板を移築した血天井が売りのようだ。(右写真)養源院本堂玄関。ここから奥は撮影禁止。本堂廊下の宗達の杉戸絵と血天井が見所だ。
養源院は、秀吉の側室淀殿が父の浅井長政(母はお市の方)の追善のために、1594年(文禄3年)に建立した寺。長政の法号「養源院」を寺号としている。本堂の杉戸と襖の絵は俵屋宗達の筆によるもので、共に重要文化財。本堂内は撮影禁止のため写真は無い(本堂横で絵葉書が売られているが買わなかった)としておく。

<<それから五条通を越えて北へ歩き、線香の煙がもうもうとしている六波羅蜜寺の前を通って、ごちゃごちゃした横町をあてずっぽうにうろうろした。このあたりは六道と呼ばれている。そして私がさがしているのは、大椿山六道珍皇寺という寺なのだった。(略) 六道珍皇寺は、今昔物語では愛宕寺(おたぎでら)と呼ばれている。念仏寺ともいい、また鳥辺寺ともいう。かっては六道から五条坂までにおよぶ、かなり広大な寺域を有していたらしい。一説には小野篁が建てたといわれているほど、古くて由緒のある寺だったらしいが、場所が場所だけに、中世以来たびたびの戦火に焼かれ、一時は廃寺になっていたこともあり、いまでは規模もぐっと縮小して、訪れる観光客もないままに、つい北にある建仁寺のかげにかくれるようにして、ひっそりと存続しているようである。(略)>>
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(左写真)六波羅蜜寺。右方向に少し進むと松原通と交差する。そこが六道の辻。かって死者を鳥辺野へ葬送する際に野辺送りをしたところであり、あの世とこの世との境界となる場所なのだ。(右写真)六波羅蜜寺境内の平清盛の塚。かって六波羅一帯は平家一門の大邸宅が居並び、この世の栄華を極めていた地であった。
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(左写真)六道の辻。付近は「どくろ」の語源となった轆轤(ろくろ)町。道に不案内な渋沢龍彦はさらりとここを通り過ぎたようだ。右方向が線香の煙がもうもうとしていた六波羅蜜寺。T字路突当りで幽霊子育飴で有名な「みなとや」が商いをしている。奥(東)方向へ進むと建仁寺の塔頭・六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)だ。 (右写真)六道の辻の西角(西福寺)に石柱が建つ。
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(左右写真)六道の辻から松原通のゆるい上り坂を東方向(鳥辺野)へ進むと、左手に六道珍皇寺の朱塗りの山門があらわれる。
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(左写真)六道珍皇寺門前の「六道の辻」の石碑を澁澤龍彦は見ていない。平成7年の建立だ。 (右写真)本堂の軒に下がる小野篁旧跡の大提燈。小野篁の読みは<おの の たかむら>。京都市北区紫野に伝・紫式部の墓(奥)と隣接して小野篁の墓(手前)が存在する。   

<<「あの井戸は・・・・・・」 すると、打てばひびくように大黒さんは答えた。「あれが篁伝説の井戸でございます。あの井戸をくぐり抜けて、小野篁は心のままに、あの世に通うことができたといわれています。それと申しますのも、篁は地獄の閻魔王庁の冥官だったからだそうでございますね。この世とあの世で、二つの役割を演じ分けていたのでしょうか。おもしろいのは、篁はあの世へ行く時には、この珍皇寺の井戸から出かけ、あの世から帰ってくる時には、嵯峨の清涼寺の乾の方角にある生六道(しょうろくどう)というところから、もどってきたといいます。」 「清涼寺といいますと、あの釈迦堂のことですか。あんな遠いところまで、京の町を東西につらぬいて、ここから地下道が通じていたのですかね。」 「さあ、それは存じませんが、そういう伝説があるのでございます。」>>
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(左写真)六道珍皇寺本堂に向って右手の庭にある「地獄への井戸」。 (右写真)豊臣秀頼の首塚がある清涼寺に建つ小野篁遺跡の石柱。この地は、光源氏のモデルとなったと伝わる源融が嵯峨に営んだ広大な山荘・棲霞観(せいらかん)の跡地だ。源融の死後、遺児らにより棲霞寺が完成する。その棲霞寺の一郭に釈迦堂として発足したのが現在の清涼寺だ。昼は嵯峨天皇に仕え、夜は六道珍皇寺の「地獄への井戸」から閻魔大王に仕えるために冥土へ出かけていた小野篁が、再び、この世に戻ってくるための「生六道」があった場所は、清涼寺の乾(いぬい=北東)の方角にあった福生寺(廃寺)であったと伝わっている。

「六道の辻」の章は、さらに鳥辺野の一角である六波羅の地に空也が六波羅蜜寺を建立したこと、六道珍皇寺が桓武帝遷都の時からすでに火葬所であったことなどに話が及んでゆく。それらに興味がある方は「唐草物語」(「六道の辻」)を読んでください。
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「唐草物語」澁澤龍彦 単行本1981年河出書房新社刊 1996年文庫刊
初出:「文藝」誌1979年1月号〜1980年1月号連載
撮影は2011〜2012年。
posted by y.s at 10:06| Comment(0) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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