2015年01月30日

渋谷 大盛堂書店 藤田佳世「大正・渋谷道玄坂より

農村風景が広がっていた渋谷が「町」へと変貌をとげ始める明治後期、道玄坂下の宇田川沿いで一軒の本屋が創業した。宇田川は消滅したが、変わらずその場所で現在もその本屋は営業している。大盛堂書店である。
藤田佳世(かよ)の「大盛堂書店の後日」(「大正・渋谷道玄坂」1978年1月青蛙房刊収録)にその歴史が述べられている。
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創業地(渋谷センター街入口角)で営業を続ける大盛堂書店本店。2012年12月撮影。

<<渋谷駅前の大盛堂書店は、すでに七十年に近い歳月を道玄坂と共に歩んで来た店である。初代の般坂米太郎氏は山梨県の造り酒屋の次男として生まれたが、父の代に至って倒産の悲運に遭い、立身の道を東京に求めて上京した。米太郎氏が渋谷に来たのは明治四十二年であった。
渋谷には明治三十四年に与謝野鉄幹が道玄坂の裏手に、三十八年には国木田獨歩が坂の途中の「ばれん屋」という旅館に半年以上も滞在していた、というように、従来の農村の気風の中に、文士とよばれる人たちが新しく入って来てはいたが、明治四十二年になって、やっと町と呼ばれるようになった道玄坂は、まだ多分に残っている泥くささの中で、新しい街づくりに手をつけ始めたばかりであった。
米太郎氏は開業の資金を得るために屋台を引き、それに本を立て並べて、農大、国学院など、この周辺の学校を主にして書籍を売り歩き、二年間の刻苦の末に、道玄坂下、十字路の右側に書店をひらいたのである。まだ宇田川橋の欄干がここにあった明治四十四年八月のことであった。
(略)
二十年の歳月が飛んで、大盛堂は戦時「戦火による被害を最少限度に喰い止めるために」という名目で行なわれた強制疎開の枠に入り、なんら損傷もない店をむざむざ取りこわされた。>>
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左から右へ(現在の歩道あたりに)宇田川が流れ、大盛堂前には宇田川橋が架かり、省線(JR)の下をくぐったところで宇田川は渋谷川(現在は暗渠)と合流していた。

<<昭和二十年五月、道玄坂は焼夷弾の雨によって灰燼(かいじん)に帰し、一望の焼け野の中で終戦を迎えた。大盛堂の若き当主、舩坂弘氏は先ず一坪の地所に戸板を置き、その上に本を並べて売ることから焦土の街の第一歩を再起に踏み出したのである。
今は道玄坂下、渋谷センター街入り口(元の位置)と、西武デパート前に、営業面横八百坪に及ぶ綜合ブックセンター(*閉鎖)、いわゆる本のデパートを持つ大盛堂であるが、いま私がここに書きたいのは、店の規模の増大ではない。現当主舩坂弘氏の高邁な人柄とそれに伴う行為の真実である。>>
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大盛堂ブックセンター跡(渋谷区神南1−22−4)。現在はZARAビルに名称を変えている。通り側にジグザグに上階に向うエスカレーターが窓越しに見えていた。左手前のビルは西武渋谷店西舘。

著者藤田佳世は1912年(明治45)生まれ。3歳から渋谷で育つ。少女時代からの記憶をたぐり寄せた貴重な証言の数々を「大正・渋谷道玄坂」等の著作に残している。
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posted by t.z at 08:21| Comment(0) | 東京北西部tokyo-northwest | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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