2015年07月23日

京都円山 左阿弥 志賀直哉「暗夜行路」より

大正3年(1914年)9月中旬、志賀直哉(31歳)は、4カ月を過ごした松江から京都南禅寺町北の坊に移る。10月、「暗夜行路」前篇草稿の一つ「時任信行」を執筆。
12月21日、東京麹町元園町の武者小路実篤(さねあつ)邸で勘解由小路資承の娘康子(さだこ)(戸籍面は「康」)と挙式。媒酌人は無く、列席者は武者小路夫妻、勘解由小路夫妻のみであった。
同月、京都に帰り、円山公園内の料亭左阿弥で友人らに披露。康子は実篤の従妹で25歳。先に川口武孝に嫁したが死別(娘喜久子を生む)。この結婚を推進したのは実篤夫妻。康子の娘喜久子は実篤の養女となっている。志賀直哉の父直温は、この結婚に反対で、父子の不和はさらに深まる(のちに「和解」)。
志賀直哉は、料亭左阿弥での披露宴の模様を主人公謙作の挙式に置き換えて「暗夜行路」に登場させる。
anyakorosaami01.jpg
(写真)料亭左阿弥。

<<二人の結婚はそれから五日程して、圓山(まるやま)の「左阿弥(さあみ)」と云ふ家で、簡単にその式が挙げられた。謙作の側からは信行、石本夫婦、それから京都好きの宮本、奈良に帰つてゐる高井、そんな人々だつた。
直子の側はN老人夫婦と三四人の親類知己、その他は仲人のS氏夫婦、山崎医学士、東三本木の宿の女主(*三本木の旅館信楽)等で、簡単と云つても謙作が予(かね)て自身の結婚式として考へてゐたそれに較べれば賑やかで、寧ろ自分にはそぐはない気さへした。
そして此日も上出来にも彼は自由な気分でゐる事が出来た。種々(いろいろ)な事が、何となく愉快に眺められ、人々にもさういふ感じを与へ得る事を心で喜んでゐた。
舞子、芸子(げいこ)等の慣れた上手な着つけの中に直子の不慣な振袖姿が目に立つた。その上高島田の少しも顔になづまぬ所なども、変に田舎染みた感じで、多少可哀想でもあつたが、現在心の楽んでゐる謙作にはさういふ事まで一種ユーモラスな感じで悪く思へなかつた。
十一時頃に総てが済んだ。>>  志賀直哉「暗夜行路」筑摩現代文学大系1976年刊より抜粋。
anyakorosaami02.jpg
(写真)料亭左阿弥表玄関。

参考 「志賀直哉全集第22巻」岩波書店2001年刊
志賀直哉リンク
京都 山科 志賀直哉邸跡 「山科の記憶」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447362573.html
茗荷谷 切支丹坂 志賀直哉「自転車」より http://zassha.seesaa.net/article/447574437.html
【関連する記事】
posted by t.z at 21:17| Comment(0) | 京都kyoto | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。