2015年08月06日

京都宇治 平等院鳳凰堂 谷崎潤一郎「朱雀日記」より

平等院は、はじめは河原(かわらの)左大臣源融(みなもととおる)公の別業として、貞観元年(859年)に造られたが、その後、陽成院が、この地に行宮(あんぐう)を設け、宇治院と号した。六条左大臣雅信(まさのぶ)公の所領となった後、長徳四年(998年)十月、関白藤原道長が源重信夫人より宇治院を購入し遊覧の地とする。さらに道長の子息摂政頼通(よりみち*永承五年に関白)が、永承七年(1052年)に寺院として平等院と号した。翌永承八年(=天喜元年)三月、阿弥陀堂として建てた御堂の供養をする。この御堂が、後の戦乱(建武三年の宇治の戦いで阿弥陀堂を残し平等院の大半が焼失)を掻いくぐり、今日まで伝わっている鳳凰堂である。
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(写真)鳳凰堂は鳳凰を象(かたど)り、左右の高楼・回廊を翼とし、背後の廊を尾とした。
鳳凰堂をめぐる阿字(あじ)池は、恵心(えしん)僧都の作。

谷崎潤一郎「朱雀日記」東京日日新聞・大阪毎日新聞 明治45年4月〜5月連載初出。
<<何んでも前の日から降り續けて居た天氣が上りかゝつて、をりをり雲の隙から洩れる薄日が、糠(ぬか)のやうな雨の脚を光らせて居る午過ぎであつた。年の若い、獨逸(ドイツ)話ぐらゐ心得て居さうな平等院の坊さんが、大きな鐵(てつ)の鍵を持つて、鳳凰堂の裏口の木柵の錠を、がしん、がしん、と揺す振りながら開けてくれた。露に濡れた雑草のだらだら路を下りて、尾楼の附け根の階を上ると、方五間の縁側の石甃(いしだたみ)が、瓦葺の傾斜の優しい庇の蔭を平かに走つて居る。石は皆堅固な方形の御影で、損所缺所の少いのは、近頃新しく修繕を加へたものであらう。柱と柱の間の白壁なども、時々塗り換へるものと見えて、風雨に曝された痕跡は認められないが、却つて俗卑に陥いるやうな失策もなく、古めかしいイリユウジョンを尊重すると同時に、其の實在(じつざい)性を確かにさせて居る注意深い手際を、何よりも嬉しく思ふ。
やがて坊さんが、北向きの重い扉を、中からギーと軋(きし)めかせて押し開いてくれる。中央に本尊の阿彌陀如來、楣間(みけん)に雲中供養の二十五菩薩、天蓋、虹梁(こうりゅう)、支輪(しりん)の装飾ーー晝(ひる)も夜も眞暗な四壁のうちに密閉され長らく日の目を見なかつた國寶(こくほう)の藝術が、外界の空氣に出遇つてほツと一と息吐きながら、燦然と我等の眼の前に輝く。縁側に雪駄を脱いで、堂内の床を歩むと、冷やへとした敷き甃が、夏足袋の底を徹して足の裏に觸れ、丁度山奥の瀧壷のほとりへ近づいたやうな肌寒さが、襟元へぞくぞくと沁み込んで來る。>>
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(写真)中堂(中央部)に長(みたけ)六尺の本尊阿弥陀仏(定朝の作・座像)が安置されている。
中堂内部は公開されているが撮影は禁止。

<<「あの天井の圓(まる)い物を御覧なさい。あれは皆鏡なので、今日では眞黒に燻(くす)つて了ひましたが、此のお堂が出來たての時分には、きらきら光つて内部の装飾を一層美しく反射させるやうに、作られて居たものと思はれます」かう云つて、坊さんはうす暗い上の方を指し示した。其處には鹽煎餅(しおせんべい)程の大きさの、古板のやうに錆びて煤けた小型の鏡が、二つ三つ残存して居る。昔は此れが格天井の十字のところに悉く附いて居たものであらう。床を除いた堂字の殆ど全部が驚くべき精妙な細工を以て丹念に飾り盡されて居たらしい事實は、到る所に發見せられる。あまり人の注意を惹かないやうな扉の止め金や鋲(びょう)の頭を、試みに指先でゴシゴシ擦つて見ると鐵の赤錆の下から銅の象眼が緑青(ろkしょう)を吹いて現れたり、金鍍金(きんめっき)の痕が出て來たりする。其の外、須彌壇(しゅみだん)の梨地(なしぢ)の面には、蟲の喰つたやうな線が無数に刻まれて居るが、此れ等は凡て螺鈿(らでん)が篏込(はさみこ)んであつたのだと云ふ。
(略)
鳳凰堂は関白頼通の建立に係ると傳へられて居る。頼通と云へば道長の子息で、後三條天皇の壓迫の為に、宇治へ追隠した男である。藤原氏の勢力は其の頃から次第に失墜し始めたやうなものゝ、いまだ武門の勃興しない當時に於いては、なかなか侮り難い富のカを持つて居たやうに考へられる。即ち此の堂は藤原氏旺盛時代の掉尾(とうび)の置土産として、後世に残されたものと見ても差支へないのであらう。>>
  「谷崎潤一郎全集第一巻」1981年中央公論社刊より抜粋。

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(写真)棟の上に雌雄の鳳凰が金銅をもって造られている。

白洲正子も随筆「平等院・雲中供養仏」で鳳凰堂中堂内部を描写している。
<<宇治の平等院は、永承七年(一〇五二年)、藤原頼通(よりみち)によって建立された。翌天喜(てんぎ)元年に、定朝(じょうちょう)作の阿弥陀如来が、阿弥陀堂の中に安置され、これがのちに鳳凰堂と呼ばれるようになった。宇治川の東岸の、朝日山に向かって建ち、あたかも鳳凰が翼をひろげて、飛び立たんとする風情に造られている。
建物も軽やかで美しいが、内部の装飾も、藤原文化の粋を集めている。金色にかがやく本尊を中心に、天井から柱、長押(なげし)の末に至るまで、宝相華文(ほうそうげもん)の彩色がほどこされ、扉にも壁にも阿弥陀浄土の風景が描かれた。
「極楽いぶかしくは、宇治のみ寺をうやまえ」と、当時のわらべ歌にも謳われたように、それは藤原貴族が夢みた極楽世界そのものであった。中でも魅力があるのは、長押の上の白壁にかかっている五十二体の飛天(ひてん)である。正しくは「雲中供養菩薩像」といい、檜の一木造りの群像で、或はさまざまな楽器を奏し、或は蓮華や宝珠をささげ、雲に乗って舞ったり歌ったりしている。創建当時は、華やかに彩られていたらしいが、今は漆も彩色も剥落して、美しい木目の生地(きじ)を現しているのが却(かえ)って趣がある。>>
  白洲正子「決定版御仏の心 日本の仏像」1979年10月世界文化社初出より。

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(写真)鳳凰堂の大修理は、明治35年(1902年)より5年に渡って行われ、さらに昭和25年(1950年)より6年間、鳳凰堂を全面解体しての修理が行われている。平成の修理は、2012年9月から足場が組まれ(上写真)、2014年9月8日に終了した(落成式10月1日)。  
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(写真)平成修理(2012年9月)前の雌雄対の鳳凰。

参考
 「都名所図会三」安永9年版、ちくま学芸文庫1999年刊。
 「古寺巡礼・京都 平等院」淡交社1976年刊
谷崎潤一郎リンク
神田南神保町 谷崎潤一郎の文壇デビュー 「青春物語」より http://zassha.seesaa.net/article/443072199.html
京都嵯峨朝日町 車折神社 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442840656.html
京都伏見 淀古城 谷崎潤一郎「盲目物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443206554.html
大阪船場・御霊神社 御霊文楽座 谷崎潤一郎「青春物語」より http://zassha.seesaa.net/article/443158094.html
目白 谷崎潤一郎の仕事部屋 谷崎松子「倚松庵の夢」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/448091444.html?1489817860
大阪南 旅館(待合)千福とカフエ・ユニオン 谷崎潤一郎「芥川龍之介が結ぶの神」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/432273298.html?1493981055
京都島原 角屋(すみや) 谷崎潤一郎 「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/424681960.html?1494858522
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posted by y.s at 17:27| Comment(0) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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