2015年08月23日

京都島原 角屋(すみや) 谷崎潤一郎「朱雀日記」より

安政元年(1854年)8月15日、島原遊郭は大火に見舞われる。廓(くるわ)内から出火した炎は、上之町、中之町、太夫町、中堂寺町を焼き尽くし、わずかに下之町の一部と揚屋町が焼け残る。寛永年間(1624〜1644)以来の豪奢な遊郭建築が焼失するなかで、揚屋町の角屋(すみや)のみが今日まで揚屋建築の全容を欠けることなく遺している。角屋は揚屋(宴会用の酒食饗宴の場)としての営業を明治5年に終え、以降はお茶屋として、昭和六十年(1985年)の閉店まで灯を消さずに永らえてきた。その間、角屋は昭和27年(1952)重要文化財建造物に指定され、現在は「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されている。
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(写真)揚屋町の角屋。北方向から。

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(写真)角屋門口から。

谷崎潤一郎「朱雀日記」より。
<<古跡を捜らない云ひ譯には、祇園も知つたし、先斗町にも馴染んだし、此の上島原の遊廓さへ覗いて置いたら、一と渡り京都の色里を見物した事になる。ちやうど五月十二日の五月雨の晩に、私は好い傳手(つて)があつて、彼の廓で有名な角屋(すみや)と云ふ貸座敷へ案内された。一體(いったい)私は今日のprostitution(*売春)と云ふものが嫌ひである。たとひ水轉(みづてん)でも藝者の方が、どうも女郎より氣持が好い。附き合ひの為に遊廓へ連れて行かれて、娼妓をあてがはれても、めつたに肌を許させはしない。唯、幸に島原には、二百五十年前の建築のまゝの角屋(すみや)があつて、寛永時代の華美寛濶な匂を残して居る。其れが私には懐しかつた。だから、島原へ遊びに行くと云ふよりも、寧ろ角屋を見に行くと云つた方が、適黨(てきとう)であるかも知れない。
 丁度東京の吉原が、日本橋の大門通りから浅草田圃(たんぼ)へ移轉(いてん)を命ぜられたやうに、島原も寛永年間に三筋町から今の場所へ引き移つたのである。當時九州に天草の亂があつて人心恟々(きょうきょう)たる折柄、此の遊廓の騒動もをさをさ之に劣らず、日夜戦ひの巷のやうな繁昌を續けた所から、肥前の島原にたとへて「島原々々」と呼んだのが遂に地名となつて了つた。だから島原と云ふ名は、決して女性的な、優美な連想を起すぺき性質の言葉ではなかつたのであらう。明治の人間が吉原へ行くのを北極探険と稱(しょう)したり、庇髪の一種を二百三高地と名付けたりすると同様、殺風景な比喩のうちに、多少おどけた、駄洒落の意味が含まれて居たものであらう。 (略)>>
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(写真)中庭から見た角屋一の大広間松の間に続く廊下。

<< 天井の棹縁(さおぶち)だの、障子の桟だの、欄干などの、木材の組み合せ方が殆ど一と間一と間に異つた意匠を施され、種々雑多な線條を弄んで作られて居るにも拘らず、さながら伽藍の本堂のやうな廣々(ひろびろ)とした座敷が多く、如何にも細エが大仰で、たつぷりして居る為めに、東京の小待合めいたせせこましい氣障(きざ)な趣は微塵もない。現に二十五畳敷の松の間の縁側などは、幅の廣い大きな檜の一枚板で出來上つて居る。さうして、今ならば當然四角形であるぺき座敷の形が、要もないのに、ところどころで折曲つて、金尺(かねじゃく)のやうな恰好をして居る。松の間とか、梅の間とか、孔雀の間とかは、大概唐紙の模様に依つて名づけられたもので、應擧(*円山応挙=江戸中期の絵師)、岸駒(*がんく=江戸後期の絵師)などの筆蹟が、襖に残つて居る。緞子(どんす)の間は襖に緞子を用ひ、扇の間は天井に扇面(せんめん)を貼り詰めてある。驚いたのは螺鈿(らでん)の間で、床の間の壁の中まで、螺鈿を篏(は)め込み、硬屏(こうびょう)から煙草盆のやうな器具にも其れが鏤(ちりば)めてあつた。天井は蒲(がま)を網代に編んで張つたものださうだが、眞黒に煤けて莚(むしろ)の様になつて、二三個所に蛇の出て來さうな大穴が開いて居た。長い年月を經て居る上、いまだに蠟燭(ろうそく)以外の燈を使はないから、何處も彼處も油烟(ゆえん)で燻つて、柱などはタールを流したやうであるが、かう云ふ大廣間で飲めや唄への歓楽を盡した昔の大盡(だいじん)こそ、眞の「豪遊」を味はつたものであらう。さう思つて見ると、土佐繪の形式を脱しない時分の風俗屏風の浮世繪の遊興圖が、まざまざと眼の前に泛(うか)んで來るやうな心地がする。 (略)>>
谷崎潤一郎 「朱雀日記」東京日日新聞+大阪毎日 明治45年4月〜5月連載初出
 「谷崎潤一郎全集第一巻」1981年中央公論社刊収録より

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(写真)網代の間の廊下からみた中庭。

永井荷風も大正11年に発表した短文「十年振」で、角屋の座敷と襖絵の幽美さに心酔した様を
書き残している。
<<京都に遊ぶのはこの度が四囘(かい)目である。明治三十年の頃父母に従つて遠く南清に遊ぶ途すがら初めてこの都を見物した。次は明治四十二年清秋の幾日かをこゝに送つた事があつた。三度目は慶応義塾大阪講演會の歸途(きと)であつた。偶然祇園の祭禮に出會つて其の盛観を目撃する事を得た。人家の欄干に敷き連ねた緋毛氈(ひもうせん)の古びた色と山鉾の柄に懸けたゴブラン織の模様とは今も猶目に残つている。幽暗なる蠟燭の火影に窺ひ見た島原の遊女の姿と、角屋(かどや*原文ルビ)の座敷の繪襖(えぶすま)とは、二十世紀の世界にはあらうとも思われぬ神秘の極みであつた。わたしは東京の友人に送つた繪葉書に、吾等は其の郷土の美と傳來(でんらい)の藝術の何たるかを討(たづ)ね究めやうとすれば是非とも京都の風景と生活とに接触して見なければならないと云ふやうな事を書きしるした。>>
   永井荷風「十年振」大正11年12月中央公論初出。 

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(写真)網代の間の障子。
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(写真)網代の間。

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(写真)松の間廊下から見た臥龍松の庭(敷地西側)。京都市指定名勝。さらに広庭左奥には
清隠斎茶席(曲木亭)が建つ。

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(写真)江戸末期の絵師岸連山の筆になる「金地桐に鳳凰圖」。

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(写真)大座敷松の間(43畳)の床の間。谷崎は「二十五畳敷の松の間」と書いているが、確か
二間続きだったと思う。松の間は大正14年に一部焼失したため重文指定から除外されてしまった。
岸良の布袋圖、縁側の欅(けやき)の一枚板などは難を逃れている。

参考 角屋HP http://sumiyaho.sakura.ne.jp/index.html
  「日本花街史」1990年雄山閣出版刊

谷崎潤一郎リンク
神田南神保町 谷崎潤一郎の文壇デビュー 「青春物語」より http://zassha.seesaa.net/article/443072199.html
京都嵯峨朝日町 車折神社 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442840656.html
京都伏見 淀古城 谷崎潤一郎「盲目物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443206554.html
大阪船場・御霊神社 御霊文楽座 谷崎潤一郎「青春物語」より http://zassha.seesaa.net/article/443158094.html
目白 谷崎潤一郎の仕事部屋 谷崎松子「倚松庵の夢」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/448091444.html?1489817860
大阪南 旅館(待合)千福とカフエ・ユニオン 谷崎潤一郎「芥川龍之介が結ぶの神」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/432273298.html?1493981055
京都宇治 平等院鳳凰堂 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/423690257.html
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posted by y.s at 23:56| Comment(0) | 京都kyoto | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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