2015年10月21日

京都相国寺門前 西郷吉之助宿所 谷千城文書より

文久2年(1862年)、薩摩藩士西郷三右衛門(36歳)は、藩命により吉之助に改名申し付けられ、さらに徳之島(6月)へ、7月になると沖永良部島へ遠島処分が下される。翌々年(元治元年)の2月、処分が解かれ、沖永良部島和泊から鹿児島に帰着。6月上旬、大坂に下る途中の伊丹で池田屋事変を知り、直ちに京都に向う。時に西郷吉之助38歳。薩摩藩二本松藩邸に入ったあたりで、近所に宿舎を求めたのが、御所北側の相国寺(しょうこくじ)門前の宿屋風の下宿であったのだろう(推測)。尚、吉之助から隆盛に改名するのは、東京に移住後の明治2年12月下旬のこと。同月25日付けの文書に初めて「隆盛」名が使用されている。
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(写真)薩摩藩二本松藩邸東側の相国寺門前付近にあった西郷吉之助宿所付近(推定)。
向って左側は同志社大学キャンパス、右側は同志社女子大学。背側が京都御所。

<<(略)丁度(ちょうど)慶応三年の極月(*12月)二十七日に始めて観兵式と云ふものを行つて、天子様(*同年1月に睦仁親王践祚=明治帝)の御覧に入れるといふことになつた、実に云ふに云はれぬ愉快さで、今は其の様子を書くとか、感想を述べるとか云つても到底筆舌の能くつくす所でない、たゞ何んとも云へない士気の立つた、心の興奮した有様で、まあ戦争の準備と云ふ風がありありと見えた。所が其の翌日の廿八日になつて、西郷から使をよこして直ぐ来て呉れと云ふ事だ、西郷は其の時御所の後ろの何とか云つた大きな寺の門前の、素人屋とも宿屋ともつかない家に泊つて居たが、私が出懸けて見るとにこにこ笑ひながら「谷さん漸う漸う始まりましたよ」と云ふ、どうした事ですかと聞くと、いや江戸で戦さの皮切りが出来て、これから始まりますと云ふ話だ、それぢや土佐に出かけて同志に知らせたりなどするのに、間に合ひますかと聞くと、間に合ふ所ぢやありません、今度始まれば二十日や三十日で結末の付く事ではありませぬ、大丈夫半年と一年かゝるとのことで、余は一と安心して、一体事の起りはどうした事かと尋ねると、廿五日に江戸で、荘内(=庄内藩)酒井の兵が主となつて、上の山の兵と共に七曲りの薩摩の屋敷を焼き払つた、尤(もっと)も其屋敷には浪人共や薩摩の暴れ者が沢山居て、江戸市中を暴れ廻り、夜になると諸方に押入り強盗などをやつたものだから、幕府は薩摩を賊と認めて襲撃して焼き払つたのである。
尤も其以前から京都と江戸とで有志互に声息を通じて兵を挙げる積りになつて居たのを、後藤が大政奉還などとあぢな事をやり、戦さをせずに治める事になつたので、戦さ主義の連中は目的がはづれ、西郷なども大心配をして居たが、当時の形勢は到底戦争なしに治まるべき筈がない、何づれどちらからか手出しをする事になるのは知れ切つて居たのを、愈々(いよいよ)幕府側から手を出したと云ふので、西郷なども大喜びをした訳であつた。>>
 谷千城(元土佐藩)「漸う漸う始まりましたよ」明治43年9月「日本及日本人 南洲号」より
*ふり仮名・(*)は原文に無し。
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posted by t.z at 00:32| Comment(0) | 京都kyoto | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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