大正15年7月21日に脱稿(東京飯倉片町の下宿にて)。
(写真)現在でも大正時代と変わらずに「川水は荒神橋の下手で簾(すだれ)のようになって落ちている」
<<(略)喬は丸太町の橋の袂から加茂磧(かもがわら)へ下りて行った。磧に面した家々が、其処に午後の日蔭を作っていた。護岸工事に使う小石が積んであった。それは秋日の下で一種の強い匂いをたてていた。荒神(こうじん)橋の方に遠心乾燥器が草原に転っていた。そのあたりで測量の巻尺が光っていた。
川水は荒神橋の下手で簾(すだれ)のようになって落ちている。>>
(写真)喬が丸太町橋西詰から河原へ下りて行った付近のスロープ。
(写真)喬が腰を下しただろう辺り(左手が上流)。
<<夏草の茂った中洲の彼方で、浅瀬は輝きながらサラサラ鳴っていた。鶺鴒(せきれい)が飛んでいた。
背を刺すような日表(ひなた)は、蔭となるとさすが秋の冷たさが跼(くぐま)っていた。
喬は其処に腰を下した。
「人が通る、車が通る」と思った。また、「街では自分は苦しい」と思った。
川向うの道を徒歩や車が通っていた。川添の公設市場。タールの樽が積んである小屋。空地では家を建てるのか人びとが働いていた。川上からは時どき風が吹いて来た。カサコソと彼の坐っている前を、皺(しわ)になった新聞紙が押されて行った。小石に阻まれ、一しきり風に堪えていたが、ガックリ一つ転ると、また運ばれて行った。(略)
「ああこの気持」と喬は思った。「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分或いは全部がそれに乗り移ることなのだ」
喬はそんなことを思った。毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑―病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距(へだた)りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、此処の高い欅の梢にも感じられるのだった。
「街では自分は苦しい」 (略)>>
同人誌「青空」1926(大正15)年8月1日通算第18号初出(青空社刊)
短編集「檸檬」新潮文庫収録版より引用抜粋。*ふり仮名は原文に無いものも有り。
参考 「梶井基次郎 年表作家読本」1995年河出書房新社刊
梶井基次郎リンク
飯倉片町 梶井基次郎「ある崖上の感情」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381251157.html
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