写真は5年以上前から撮っており、その都度、日記に小出しにしてきたが、TVドラマ化され放送が始まるこの機会を受けて、とりあえず「真田出丸」から始めてみる。
江戸期前半の史料(主に戦国史料叢書収録の真田史料集「左衛門佐君伝記稿」)を参考にしているが、関連する記述箇所が他の史料(「駿府記」など)にも散見され、漸次追加して形を整えてゆく予定。
*タイトルは「大坂冬の陣 真田出丸」とかに変更するはず。
*個人的な想像なので内容は全く保障されません。

真田出丸想像位置(未確定)。「真田山」の地名が現在に残る一帯を四方八方から歩いてみたが、高所に砦を築くという常識に従えば、この付近の最高地点は「餌差町信号」(大掛かりな削平工事が過去には行われていないという楽観に基づく)。「出丸は四方が百間」(江戸期資料「難波戦記」)に従えば、すっぽりと収まるのが、高所である上にわりと平坦な台地であったろうと思われる私立明星学園の校舎とグランド(東西幅約200m)。この高地を主郭として東西のやや低地に柵・土塁・空堀(南面には水堀=「大坂冬の陣図屏風」。西側の柵は「加賀衆挿ル様子図」)を廻らしたと想像。
*登り坂と付記した矢印は下から上の意。数字付き赤矢印は撮影アングルと画像番号。赤太線は真田出丸の外郭・柵(かなり想像)。
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慶長19年10月9日夜(五ツ刻)、紀州高野山九度山の郷に配されていた真田左衛門佐信繁(のぶしげ)は、徳川家康との軍(いくさ)を決意した豊臣陣営の招聘を受け、紀伊国主浅野但馬守長晟(ながあきら)の警備を掻い潜って脱出、子息大助を伴い大坂城へ入城(10月10日)した。関ケ原戦の後、父真田昌幸と共に配流された高野九度山での在居年数は、この時、足掛け15年に及んでいた(信繁の内室は、関ケ原戦で盟友石田三成とともに敗死した大谷刑部の娘)。
小川治郎兵衛と云う山川帯刀の甥(おい)の文言が残っている。
<<此の出丸の事は、普請の初めより、真田丸と号して諸人の耳に触れたり>>
慶長19年12月2日に大御所家康が茶臼山本陣に移動。3日午後、1日に続き将軍秀忠が南方面の備えを巡察(翌4日に平野から岡山本陣に移動)。
<<十二月三日未の刻、秀忠公、左衛門佐殿の堅め給ふ山丸の近辺を御巡見有りて、要害の躰、自余の持口とは事替り、守り密にして透間なきを上覧有りて、卒爾(そつじ)に攻むべからざるよし仰せ出だされしと也。寄手は加賀・越前殿也。則前田殿下知(げち)して、出丸の前に堀を掘りて、小山を築き上げ、竹束を付け寄せて、鉄炮を打込まんと用意す。>>
未の刻=午後2時前後
左衛門佐=真田信繁
加賀殿=前田利家の孫・利常
越前殿=松平忠直
小山=攻撃用に築いた山(前田隊の築山は高さ5〜6m、階段付きで土俵で固めた頂上から敵方を狙撃=「大坂冬の陣図屏風」参照。)
12月4日払暁、濃霧につつまれた真田出丸で攻防の火蓋(ひぶた)がきられる。
「左衛門佐君伝記稿」真田史料集収録より抜粋。
<<十二月四日夘上刻に、惣寄手人数、俄(にわか)に押し寄せたり。其の朝は殊の外霧深くて暗夜の如くなれば、城中にて是を知る物なし。>>
だが左衛門佐信繁は予測していた。真田出丸の正面に加賀勢が取掛り、堀底(深さ7〜8m)に先陣の将兵が充満した頃を見計い、鉄砲による一斉攻撃を命令。霧深くとも至近距離からの射撃は正確であったろう。真田方の大鉄砲の威力はすさまじく1発で3〜4人の甲冑を撃ち抜いたと思われる。
<<次き討ち落されて上が上に重り死す。>>
加賀(前田)隊を始めとする寄手(井伊隊・松平隊他)の惨状はすさまじく、真田出丸の深堀は折り重なる徳川方の死骸で平地の如くになるまで埋まってしまったという。
<<冬陣に寄手の討死にしたるは五分のもの四分は此の時に死にたりと也。>>
徳川方の冬の陣における戦死者の約80%が真田丸周辺に集中すると書き残した文書が残っている。
尚、真田出丸で用いられた旗指物には六連銭は掲げられていない。
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