昭和2年3月1日の夜、この南(みなみ)の待合で初対面の挨拶を三人は交わす。翌2日、松子に誘われた芥川と谷崎は、千日前のダンスホールに出かけるが、芥川は壁に寄りかかり、松子と谷崎の踊る姿をじっと眺めているだけ。確認をとろうと、昭和初期の電話帳(大阪市全域が一冊に収録)を繰ってみたが、旅館・待合・料理等の職業別欄で探せど「千福」は見つからない。仕方なく谷崎が「芥川龍之介が結ぶの神」の章で道案内した言葉を信じて、その「千福」跡を訪れてみた。
「千福」 南區心斎橋筋2丁目31の3(谷崎の説明を住所化)。

(写真)心斎橋筋2丁目の待合千福跡。
<<(略) それに都合のいゝことには、南の三寺筋に千福と申す放館兼待合のやうな家がございました。近頃はあまりあゝ云ふ種類の家は、その筋の眼がやかましうございますので次第に少くなりましたが、今でも京都の上木屋町邊には軒並みにございます、旅館もすれば料理屋もする、藝者の箱も這入る、と云ふ至つて便利な仕組みの家、あゝ云ふ家でございますな。女将は阿波の徳島の人でおとみさんと申しまして、美人と申す程ではございませんけれども、なかなか賢い頭のいゝ人でございました。戎橋を南へ渡つて河岸通りを右へ曲つたところの角から二三軒目、つまり今の松竹座の隣ぐらゐのところ、あすこに福田屋と申すお茶屋がございましたが、おとみさんはそこの仲居をしてをりましたのが、後に福田星の福の字を貰つて「千福」と申す旅館を始めた譯でございます。三寺筋と申しますと、八幡筋の一つ南の筋、戎橋を北へ渡つて河岸通りの筋の次の筋だつたと記憶いたします。そこを橋筋から西へ曲つた南側に「千福」と云ふ家がございました。手前は岡本から出て参りまして大阪で夜を更かしますと、つい歸るのが億劫になりまして一人でもよくこの家に泊りましたが、客を案内いたします時はいつもこゝに決めてをりました。
餘談にわたりますけれども、芥川さんが自殺されましたのはこの事件の明くる年、即ち昭和二年の七月のことでございますが、もうその千福に泊つた時分から、よほど尋常でない様子がございましたな。たしかその晩もその明くる晩も、廣い座敷に手前と二人向び合つて寝たんでございますが、芥川さんはひどい不眠症に悩まされてをられるらしくて、酒とヂアールとをちやんぽんに飲み、それでもどうしても寝られないと零(こぼ)しとられました。
(略)
あの千日前の、この間まで大阪歌舞伎座がございました所、たしかあすこにカフエ・ユニオンと申すダンスホールがございましたが、手前はその頃社交ダンスに凝つてをりましたので、あまり氣の進まない芥川さんを誘び出して、引つ張つて行つたことがございました。その時手前がタキシードか何かを着ようとしまして眞珠のボタンをワイシャツに篏めようとしておりますと、芥川さんは何と思つたか、「僕が篏めて上げませう」と、手前の前に膝をついて手傳つて下さいました。芥川さんがこんなことまでして下さるのは始めてゞ、まるで仲居さんがしてくれるやうなことをして下さいますのは、御親切は忝(かたじけな)いけれども、それにしても少し親切過ぎる、何だかなさることが尋常でない、何か變(へん)だなと感じましたつけが、その時氣がつきましたのは、芥川さんの眼の中に一滴の涙が潤んでゐるのでございました。ほんの一瞬間のことで、すぐその涙は消えてしまいましたけれども、どうも手前は薄氣味が悪く、不吉な豫感のやうなものを感じたことでございました。
それはそれといたしまして、そこに二晩ばかり泊りまして芥川さんは東京へ、手前は岡本へ歸ると云ふ日の朝のことだつたと存じます、女将のおとみさんが、「谷崎先生も芥川先生もまあお待ちやす、實は先生方に是非合はしてほしい云うたはる奥さんがおいでゞすねんけど、もう一日お延ばしやすな。一日ぐらゐよろしやおませんか」と、申すのでした。
「いや、さうゆつくりもしてられません、今日は東京へ歸らなくつちや」と、芥川さんは申されます。
「そんなら夜汽車にしやはつたらどうです。電話したらすぐその奥さんおいでになりまつせ。せめて晩の
御飯でも附き合うたげとくれやすな」
「その奥さんて何者なんです」
おとみさんが申されますには、大阪の船場(せんば)の御大家の御寮人さんで今年二十三四歳の美人である、お店は古くからある綿布問屋さんで本町通にあるんですが、お住居は阪急の夙川(しゅくがわ)にあつて、文學好きな、なかなかハイカラな奥さんである、その奥さん先生方がこゝにいらつしやるちふ噂を聞き込み、えゝ機會やよつて是非と仰つしやつてるんです、と云ふのでございました。手前はその話を聞きまして忽ち好奇心を動かされましたが、芥川さんはやはり今日は歸ると云つて承知なさいません。仕方がないので驛まで送つて参るつもりで二人で自動車に乗りました。この時手前は芥川さんを見送りましてから、もう一度千福へ戻つて参るつもりでをりましたか、それともおとみさんが、谷崎先生一人だけやつたらその奥さんを招く譯には行かないと云はれたのでしたか、その點はどうも記憶がはつきりいたしません。今も覚えとりますのは、大阪驛へ参る途々(みちみち)、手前が熱心に自動車の中で芥川さんを口説き、
「ねえ君、もう一度千福へ引つ返してその婦人に合つてみる氣はないですか。ねえ君、さうしてくれ給へな。僕一人ぢやあどうも工合が悪いから、もう一と晩だけ附き合つてくれ給へな」
と、盛にせがんで巳まなかつたことでございます。芥川さんは例の皮肉な薄笑びを浮かべて、
「少し馬鹿々々しいやうな氣がするな」
とか何とか交(ま)ぜつ返してをられましたけれど、結局手前の執拗(しつこ)いのに根気負けがして、さうです、まだ御堂筋なんてえ道路が出來てをりません時代で(*戎橋はあったが、よって隣の道頓堀橋は無かった)、南北線を北へ進んで、堂島邊まで参りましてから引き返したんだと覺えとります。その間も芥川さんは「少し馬鹿々々しいやうだな」と二三度繰り返しとられました。
その奥さん、後日に及んでそれが手前の今の家内になつたんでございますが、その當時は手前は勿論、その「奥さん」も将來そんな運命が待ち構へてゐようなんて夢にも思つてをりませんでした。(略)>>
「当世鹿もどき」昭和36年3月17月「週刊公論」初出、「谷崎潤一郎全集第18巻」中央公論社1982年刊収録。
*新旧字体混在(変換できない字体があるため)、原文にはほぼルビ(ふり仮名)無し、難読そうなものに適当に振ってみた。
(写真)ダンスホール「カフエ・ユニオン」跡。大阪歌舞伎座跡であり、現在はビックカメラ。
松子も「千福」での芥川・谷崎との出会いを回想している。
<<(略) 読書にも飽いた或る日、つい突拍子もないことを思いついた。恰度、夫の行きつけの南地のお茶屋のお内儀が、芥川氏を知っている、と云うことを聞いていたので、早速来阪の機会に逢わせて欲しいと頼んだ。間もなく報せがあって、お洒落もそこそこに、胸をときめかせ車を走らせた。
お座敷に招じ入れられた私は、芥川氏だけと思ったら、こちらは谷崎先生です、と紹介されてはっとしたが、直ぐに落着いて、初対面の挨拶を交わし、いさゝか上気しながら、先刻から続いていたらしいお二人の文学論を黙々ときいていた。
筋のない小説とかゞ盛んに話題になっているかと思うと、白秋、茂吉、晶子の歌が論じられる。よく暗誦が出来たものと感心して聞いていたが、私はあとにも先にも谷崎の文学論らしきものをきいたのは初めてのことであった。頭に残らないで耳をかすめて過ぎたのは未だ初心で上っていたせいであろう。今日ならば、頭の中にメモするくらい傾聴したことであろうに。あとで思い合わせると、谷崎は「饒舌録」で、芥川氏にさかんな論鋒を向けていたころであった。
その翌日であったか、南地のたしかユニオンとか云ったダンスホールに誘ったか誘われたか愉快に踊ったのであるが、タキシード姿の谷崎の女性への敬意の溢れた礼儀正しさに、少なからず驚いた。
谷崎のダンスと云うのは、横浜時代の名残らしく、大変勇ましく、千代子夫人や家族の人が「ソレ機関車が動き出したよ」とその後もよく笑わされたが、突進型で、他の組にぶつかろうとお構いなしで、ちょっと目醒ましかった。それに背丈の加減か少しチークダンスで、最初は気恥かしかったが、馴れてゆくうちに余裕も出来て、興の赴くまゝにタンゴ、ワルツと繰り返し踊った。芥川氏とも踊って戴きたかったが、終始壁の人で、私は私たちの動きを追っていられる眼を感じていた。そして、美しく澄みきったその哀愁のたゝえられた眼が、絶えず心を捉えていた。
その翌年、芥川氏の自殺の報道ーーそれは谷崎の誕生日の七月二十四日であった。>>
「倚松庵の夢」谷崎松子1979年中央公論社刊より。

谷崎潤一郎リンク
神田南神保町 谷崎潤一郎の文壇デビュー「青春物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443072199.html
京都嵯峨朝日町 車折神社 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442840656.html
京都伏見 淀古城 谷崎潤一郎「盲目物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443206554.html
大阪船場・御霊神社 御霊文楽座 谷崎潤一郎「青春物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443158094.html
目白 谷崎潤一郎の仕事部屋 谷崎松子「倚松庵の夢」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/448091444.html?1489817860
京都島原 角屋(すみや) 谷崎潤一郎 「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/424681960.html?1494858522
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