「保元物語」(陽明文庫蔵本3巻底本・宝徳3年書写)の付録年譜参照。
(写真)七条朱雀から移設された権現寺門前の源為義の供養塔(右の五輪塔)、左は顕彰碑。(下京区朱雀裏畑町)
「保元物語」から「為義最期の事」の部分を抜粋。
<<夜半ばかりの事なれば、いづこをそことは知らねども、東の方へは行かずして、七条西の朱雀(*朱雀大路)へ引きて行く。波多野次郎(*義朝の配下)、力車(りきしゃ)どもに輿(こし)を舁(か)かせて、出で来たりたりけり。鎌田(*義朝の配下鎌田正清)、朱雀にて車より輿に乗り移りたまはん処を討ち奉らんと、太刀を構へ、待ちかけたり。(略)
周防判官季實(すゑざね)、これを実験(*為義の頸実験)して、首をば義朝に返したまひければ、軀(むくろ)と共に輿に入れ、為義が山荘、北白河円覚寺(*為義の所領)にして煙となし、心の及び弔(とぶら)へども、五逆深重(ごぎゃくじんぢゅう)の孝養、亡魂承けずや思ひけん(*為義の亡魂は供養を承け容れないだろう)。
「保元物語」小学館日本古典文学全集2002年刊より
(写真)権現寺。明治45年、京都駅操車場拡張・山陰本線敷設で丹波街道(七条通)の西側に
押し出されるように現在地に寺地移動。
「愚管抄」(慈円)より保元の乱後の源為義処刑を記録した部分を抜粋。
<<コノ内乱タチマナニオコリテ、御方(*後白河天皇側)コトナタカチテ、ドガ(*罪)アルベキ者ドモ皆ホドホドニ(*程度に応じて)行ハレニケリ。死罪ハトドマリテ久(ひさし)ク成(なり)タレド(*死刑は薬子の乱810年以降中止されてきた)、カウホドノ事ナレバニヤ、行ハレニケルヲ、カタブク人(*首を傾けて不思議がる)モアリケルニヤ。>>
「百錬抄」保元元年七月の条より死刑を復活させた信西に及んだ部分を抜粋。
<<源為義己下被行斬罪。嵯峨天皇以降、所不行之刑也。信西之謀也。>>
(写真)源為義の供養塔の脇に置かれた明治45年の移設板碑。
(写真)保元の乱の合戦が繰り広げられた白河北殿址(崇徳上皇御所)。広大な御所跡の南端付近で
遺跡発掘作業が行われていた(大炊御門大路末付近2016年2月撮影)。
「愚管抄」巻第五の訳注を参考に六条判官源為義の出世来歴。
永長元年(1096年)生れ、対馬守源義親の六男であるが、義親が天仁元年(1108年)1月、追討使平正盛により、出雲蜘戸で討たれる。その為、祖父義家は叔父の検非違使源義忠の継嗣としたが、義忠は義家の弟義光と不和になり、二十六歳で郎従に殺される。その後、義家は源義忠の家督を為義に継がせる。天仁二年(1109年)二月二十三日、十四歳の為義は近江の甲賀山に叔父義綱を攻め捕らへ、義綱を佐渡に流す。その功により三月十日、左衛門尉に昇進(「殿暦」)。
「(永久元年四月)十八にて粟籠山より奈良法師追返したりし軍功に、検非違便に補」せられたという(「保元物語」)。永久元年四月に延暦寺の大衆が神輿を奉じて法皇の御所に迫った時に、白河法皇の命で検非違便源光国・平忠盛と共に源為義はこれを禦(ふせ)いでいる(「中外抄」)。
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