<<道は暗い杉の密林の中をどこまでもつづいた。
千枝子と定雄は中に清を挟んで、固さうな雪の上を選びながら渡っていった。
ひやと肌寒い空気の頬にあたって来る中で、鶯(うぐいす)がしきりに羽音を立てて鳴いてゐた。
定雄は歩きながらも、傳教(でんきょう)大師が都に近いこの地に本據(ほんきょ)を定めて高野山の弘法と対立したのは、傳教の負けだとふと思った。
これでは京にあまり近すぎるので、善かれ悪しかれ、京の影響が響きすぎて困るにちがひないのである。
そこへいくと弘法の方が一段上の戦略家だと思った。
定雄は高野山も知ってゐたが、あの地を選んだ弘法の眼力は千年の末を見つめてゐたやうに思はれた。
もし傳教に自身の能力に頼るよりも、自然に頼る精神の方が勝れてゐたなら、少なくともここより比良を越して、越前の境に根本中堂を置くべきであったと考へた。
もしさうするなら、京からは琵琶湖の舟楫(ふなかじ)と陸路の便とを兼ね備た上に、背後の敵の三井寺も眼中に入れる要はないのであった。−−−−
かういふような夢想に耽って歩いてゐる定雄の頭の上では、、また一層鶯の鳴き聲が旺(さか)んになって来た。(略)
定雄はまた弘法の大乗的な大きさについて考へた。
出来得る限り自然の力を利用して、京都の政府と耐久力の一點(てん)で戦ったのであった。
弘法は政府と高野山との間に無理が出来ると行方をくらまし、問題が解決するとまた出て来た。
こうして生涯安穏に世を送った弘法は、この叡山から京都の頭上を自身の學力と人格とで絶えず壓しつけた傳教の無謀さに比べて、政府という自然力よりも恐るべきこの世の最上の強権を操縦する術策を心得てゐたのである。(略)
(延暦寺の総本堂・根本中堂=国宝)
そのとき、定雄の頭の中には、京都を見降ろし、一方に琵琶湖の景勝を見降ろすこの山上を選んだ傳教の満足が急に分ったやうに思はれた。
それにひきかへて、今の自分の満足は、ただ何事も考へない放心の境に入るだけの満足で良いのであるが、それも容易に出来ぬ自分を感じると、一時も早く雪路を抜けて湖の見える山面へ廻りたかつた。
短編「比叡」昭和11年1月文芸春秋に初出。ルビは読みやすいように振ってみた。
*比良は、比叡山の北方に連なる山地名。
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