中島には辨財天が祀つてある。
古いその社殿は戦災焼失して、今は假(かり)建築である。摟門(ろうもん)も焼けて、石造りの洞門風の下部だけが、焼けただれた壁面を見せて残つてゐる。
(略)
(上野山から見た不忍池・辨財天社。聖天宮は辨財天社に向って右手方向の小島)
辨天さまの右うしろに出た。そこに小さな出島があって、その周囲が蓮池になってゐる。
もとは池一面に見られた蓮が、今はここにだけ小さく片寄せられてゐる。
蓮は花をつけてゐたが、花辨をもう閉ぢてゐる。
その出島の方に好奇の眼を向けて、「あれ、あるかしら?」と京子は言った。
丁度私もそのとき、あれ、あるかしらと思ってゐたところだから、驚いた。
驚いたといふのはーーー私のそのあれとは、ある意味で大変に有名な地蔵なのであつて、それに正面から見た分には、長髯(ひげ)を蓄へた人物が笠をかぶり、杖をついて、足駄を穿(は)いてゐるといふ、珍妙と言へば珍妙な、しかし、それだけの石像だが、裏から見ると、これがいけない。
田縣神社のお守りを大きくした、つまり、そのーーー男のあれの形をした代物だったから、私も、あれ、あるかしらなどと、京子の前で迂闊に口にできないとしてゐたのだが、京子は、平然と口に出して言った。
言ふだけでなく、京子は平然と足を進め、「ああ、やっぱり」平然と石像に顔を向けてさう言つて、私を更に驚かせた。
石像の人物は役の行者だといふ説もあって、それは池に向って立ってゐるから、正面を見るには池の岸に廻らなくてはならない。こっちには背を見せてゐて、はっきりと例の形を現はしてゐる。
女の辨天さまを祀つた島に妙なものがあるのだが、「江戸名所図繪」を見ると、ここは中島とは別の離れた島になってゐて、間に橋がかかってゐる。そして中島には「辨天」の字が見え、この島には「聖天」とあって、辨財天社とは別にここに聖天宮のあったことが分る。
(弁財天のある中島とは別の離れた島に聖天宮は祀られており、小さい橋が存在している)
(略)
私は例の石像に眼をやって、「僕はまた、君があれ、あるかしら言ったときは、てっきり、あれかと思った」と顎を向けた。京子はキョトンとしてゐた。
「フェリシズム(性器崇拝)の面白い石像だ」
そして私が暗示的な説明をすると、京子も気づいて、「知らない!」と身をひるがへした。
逃げる京子のあとから
「鐘の音の方しか、知らなかった?」
「ちょっとも知らなかった。あなたは、變(へん)なもの、知つてるのね」
「あれは學生時分から知ってゐる」
「いやなひとね」 >>
**京子が「あれ」と表現した対象は、同じ聖天祠にある「地獄の釜の音」であった。
高見順「都に夜のある如く」昭和29年「文別冊藝春秋」4月号より8回連載。
高見順リンク
北鎌倉 横須賀線北鎌倉駅ホーム改札のこと 高見順日記より http://zassha.seesaa.net/article/234212068.html
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