2016年09月26日

京都・岡崎 琵琶湖疎水 菊池寛「身投げ救助業」より

文藝春秋の創始者菊池寛が、京都帝大文学科を卒業した直後の1916年(大正5年)9月1日刊行の第4次「新思潮」誌に発表した短編小説「身投げ救助業」より部分抜粋。

<< 明治になつて、槇村京都府知事が疏水工事を起して、琵琶湖の水を京に引いてきた。
この工事は京都の市民によき水運を具へ、よき水道を具へると共に、またよき身投げ場所を与へる事であつた。疏水は幅十間ぐらいではあるが、自殺の場所としては可なりよい所である。
どんな人間でも、深い海の底などでフワフワして、魚などにつゝかれている自分の死体のことを考へて見ると、あまりいゝ心持はしない。
譬へ死んでも、適当な時間に見付け出されて、葬をして貰ひたい心がある。
それには疏水は絶好な場所である。
(略)
とともかく、京都にいゝ身投げ場所が出来てから、自殺するものは大抵疏水に身を投げた。
疏水の一年の変死の数は、多い時には百名を超したことさへある。
疏水の流域の中で、最もよき死場所は、武徳殿のつい近くにある淋しい木造の橋である。
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(疎水に架かる二条橋から見た冷泉橋。物語の舞台となるお婆さんの茶店は冷泉橋手前左手。茶色の塀の先辺りになる。もちろん現存せず。写真右手の大きな建物は京都会館。)

インクラインの傍を走り下つた水勢は、なほ余勢を保つて岡崎公園を廻つて流れる。
そして公園と分かれようとする所に、この橋がある。
右手には平安神宮の森に淋しくガスが輝いて居る。
左手には淋しい戸を閉めた家が並んで居る。
従つて人通りがあまりない。それでこの橋の欄干から飛び込む投身者が多い。
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(冷泉橋。両岸に植えられた柳の木々が作品に描かれているが、現在は桜=ソメイヨシノばかり。わずかに二条橋西詰で大きな柳が葉枝を風に揺らしており、当時を思い起こさせてくれる。)

岸から飛び込むよりも橋からの方が投身者の心に潜在して居る芝居気を、満足せしむるものと見える。
処が、この橋から四、五間ぐらいの下流に、疏水に沿うて一軒の小屋がある。
そして橋から誰かヾ身を投げると、必ず此家から極まつて背の低い老婆が飛び出して来る。
橋からの投身が、十二時より前の場合は大抵変りがない。
老婆は必ず長い竿を持つて居る。
そして、その竿をうめき声を目当に突き出すのである。
多くは手答へがある。もしない場合には水音とうめき声を追掛けながら、幾度も幾度も突き出すのである。
それでも遂に手答へなしに流れ下つてしまふこともあるが、大抵は竿に手答へがある。
夫(それ)を手繰り寄せる頃には、三町ばかりの交番へ使に行く位の厚意のある男が、屹度(きつと)弥次馬の中に交つて居る。
冬であれば火をたくが夏は割合に手軽で、水を吐かせて身体を拭いてやると、大抵は元気を恢復し警察へ行く場合が多い。
巡査が二言三言不心得を悟すと、口籠りながら、詫言を云ふのを常とした。
(略) >>
以上、菊「身投げ救助業」菊池寛全集第2巻より抜粋。

以下は「菊池寛全集補巻」文藝春秋・武蔵野書房1999年刊に収録された随想集から「あの頃を語る」を抜粋。自作解題風なエッセイとなっている。
<<京都大学文科の学生だつた僕は、その頃大学の裏の辺りに住んでゐた。
学校へは余り通はなかつたし、友達はなし、それに金もなかつたから、大抵毎晩図書館で過した。
下宿を出て三高前(*現在の京都大学教養学部)を過ぎ、疎水の畔を通つて、岡崎公園の図書館へ行くのである。
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(菊池寛が約3年弱通った京都府立図書館)
京都の疎水は、身投げで有名な場所であつた。今でも多分さうだろう。
鴨川では水が浅くて死ねないし、それに昔は今のやうにカルモチンやアダリンと云ふものがなかった。
だから京都の疎水は、東京に於ける隅田川の役割を演じたもので、結局京都での自殺と云へば、疎水でと云ふことになつたのである。
(略)
お婆さんは茶店のお婆さんをモデルにしたのである。
何でももう幾人か助けたことがあると云つてゐた。
茶店の少し上(*北側)に橋があるのも小説の通である。
(略)
かうした事件から「身投げ救助業」のテーマは思ひついたのであるが、
あの小説の後の方は全く創作で、お婆さんが身投げ救助になれ切つて、
仕事にしてゐると云ふやうなことや、娘のことなどは考へたものである。 >>

*参考地図
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posted by y.s at 23:54| Comment(0) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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