その間に発表された建長寺を舞台にした作品群から短編「歳晩」をピックアップ。
<< また今年も暮れる。建長寺内に來て、丁度まる三年経つた。
昨年の夏は義母、この夏には父にも死なれて、私はすつかりポカンとしてしまつた。
人生に對し、自分自身に對し、何の用意も出來ないうちに親たちに死なれてしまつた。
父の四十九日の供養に東京に出て行つたが、私もそのまゝ弟の家の二階で病気の床に就いた。
肺尖熱がいつまでも引かないて、持病の喘息時期が來てほとんど一ケ月餘り發作が讀いたため、すつかり食慾を失ひ、自分もまた父の後を追ひかけるのではないかと云ふ氣がされたりした。
三ケ月餘り東京に滞在して、十一月の下旬にやうやう寺に歸(かえ)つて來た。
山の上の部屋借りの寺に歸つて來て、私は稍(ようやく)甦つた氣がした。
晩秋の境内の爽かな眺めは、私の眼や心に好い刺激を與へた。
青い空、新鮮な空気、松の翠(みど)り、楓樹の紅葉ーー私は境内の石だたみの上を散歩したり、町の方へ出て行つたりして、衰へ切つた健康の恢復に努めた。が依然として筆を執るやうな気分になれなかつた。
(略)
(奥が建長寺方丈、葛西善蔵が寄寓した塔頭・宝珠院は写真左手に当る。)
(方丈の回廊から見た宝珠院。石段が見える。4年間暮らした庫裏は樹木に覆われ隠れている。)
十二月十一日午後、厳しい原稿催促の書留配達の手紙を受取つて、覺悟を決めてゐたところながら、喘息の發作でも來さうな昏迷を感じた。
裏の山で鵯(ひよどり)がしきりに啼いてゐた。
急に空の色が變(かわ)つて來て思ひがけない霰(あられ)が振つて來た。
それが縁前の紅い萬兩(まんりょう)の實(み)に美しく散りかゝるのを眺めやつて、年々の年越しの苦しい経験に怯え、都會の活動振りを想像しながら、凍つたやうな自分の気持に失望した。
大正十一年十二月 >>
*原文にルビは無し。
「葛西善蔵全集第2巻」文泉堂書店1974年刊より
葛西善蔵は、宝珠院の庫裏を引揚げた数年後(昭和3年7月)、世田谷区三宿の寓居で肺結核に倒れ、苦渋に満ちた41歳の生涯を終えている。建長寺は、震災後、昭和18年に総門・方丈を京都般舟三昧院より移築するなど修復に努め、昭和29年には開創700年の遠諱を行い、現在に至っている。
なほ現在、宝珠院は一般公開されていない。
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