2016年09月30日

横須賀 横須賀線と芥川龍之介「蜜柑(みかん)」

東京帝大文科大学英文学科を卒業した芥川龍之介は、大正5年12月、恩師の推薦で横須賀の海軍機関学校の教授委託(英語担当)の職に就く(約2年4カ月間・週12時間)。下宿先は鎌倉和田塚(由比ガ浜)の野間西洋洗濯店の離れで、通勤は、翌年10月に横須賀市内汐入(尾鷲方)に移転するまでは、汽車(明治22年6月に大船〜横須賀間が開通した横須賀線)を利用していた。

<< 或曇つた冬の日暮である。私は横須賀發上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり發車の笛を待つてゐた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はゐなかつた。
外を覗くと、うす暗いプラツトフォオムにも、今日は珍しく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しさうに、吠え立ててゐた。
これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。
私の頭の中には云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた。
私は外套のポツケツトへぢつと両手をつつこんだ儘、そこにはいつてゐる夕刊を出して見ようと云う元気さへ起らなかつた。が、やがて発車の笛が鳴つた。
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(大正時代の面影を色濃く残すJR横須賀駅正面玄関。昭和15年に完成した駅舎。芥川が利用した当時を彷彿とさせるレトロな雰囲気を漂わせている)

私はかすかな心の寛ぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへてゐた。
所がそれよりも先にけたたましい日和下駄(ひよりげた)の音が、改札口の方から聞え出したと思ふと、間もなく車掌の何か云ひ罵る聲と共に、私の乗つてゐる二等室の戸ががらりと開いて、十三四の小娘が一人、慌しく中へはいつて来た、と同時に一つづしりと揺れて、徐(おもむろ)に汽車は動き出した。
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(横須賀駅ホーム。大正時代のままのよう。駅玄関からホームまで階段がなく平らなのだ。)

一本づつ眼をくぎつて行くプラツトフオムの柱、置き忘れたやうな運水車、それから車内の誰かに祝儀の禮を云つてゐる赤帽ーーさう云ふすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行つた。
私は漸くほつとした心もちになつて、巻煙草に火をつけながら、始めて懶(ものう)い睚(まぶた)をあげて、前の席に腰を下してゐた小娘の顔を一瞥した。
それは油気のない髪をひつつめの銀杏(いちょう)返しに結つて、横なでの痕のある皹(ひび)だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だつた。しかも垢じみた萌黄(もえぎ)色の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下つた膝の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱ひた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事さうにしつかり握られてゐた。
(略)
すると其時夕刊の紙面に落ちてゐた外光が、突然電燈の光に變つて、刷の悪い何欄かの活字が意外な位鮮に私の眼の前へ浮んで来た。云ふまでもなく汽車は今、横須賀線に多い隧道の最初のそれへはいつたのである。
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(横須賀駅から最初の大きな隧道(すいどう)を抜け出た場所。鉄道敷地に侵入せず、限界まで腕を伸ばして撮影したもの。画面右端下に煉瓦造?のトンネルが見える)

それから幾分か過ぎた後であつた。
ふと何かに脅されたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻(しきり)に窓を開けようとしてゐる。が、重い硝子戸は中々思ふやうにあがらないらしい。あの皹だらけの頬は愈(いよいよ)赤くなつて、時々鼻洟(はな)をすすりこむ音が、小さな息の切れる聲といつしよに、せはしなく耳へはいつて来る。
これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹くに足るものには相違なかつた。
しかし汽車が今将(まさ)に隧道の口へさしかからうとしてゐる事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側の山腹が、間近く窓側に迫つて来たのでも、すぐに合点の行く事であつた。にも関らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下さうとする、ーーその理由が私には呑みこめなかつた。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考へられなかつた。
だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄へながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡(もた)げようとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るやうな冷酷な眼で眺めてゐた。
すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれこむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。さうしてその四角な穴の中から、煤を溶したやうなどす黒い空気が、俄に息苦しい煙になつて、濛々と車内へ漲(みなぎ)り出した。
(略)
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(上下線が重なるように通過。下りだけかと思っていたら、トンネルから突然、小娘と芥川を乗せた列車が・・・・あ、蜜柑が。)

しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷(すべ)りぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或(ある)貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒のうす白い旗が懶(ものう)げに暮色を揺つてゐた。やつと隧道を出たと思ふーーその時その蕭索(しょうさく)とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。
彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背が低かつた。
さうして又この町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。
それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声(かんせい)を一生懸命に迸らせた。

するとその瞬間である。
窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。
私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。
小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆(いくくわ)の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
(略)
ーーすべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。
が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。さうしてそこから、或得体(えたい)の知れない朗な心もちが湧き上つて来るのを意識した。
私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返つて、不相変皸(ひび)だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。・・・・
私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。 >>
「芥川竜之介全集第3巻」岩波書店刊

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(恐らくこの付近に踏切があったのだろう。現在、公園の横須賀寄りの位置に記念碑が設けられ、脇には蜜柑の木が植えられている。植樹は芥川也寸志・瑠璃子両氏に寄る。)
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(横須賀駅から最初のトンネルまでの見取り図)

**芥川龍之介「蜜柑」関連の略年譜
大正5年7月 東京帝大文科大学英文学科卒業 大学院在籍(後除籍)。
   12月1日 恩師推薦で横須賀の海軍機関学校教授委託(英語担当)に就く(週12時間)。
        下宿先は鎌倉和田塚(由比ガ浜)の野間西洋洗濯店の離れ。
大正6年9月14日 横須賀市内汐入580番尾鷲方に移転。
大正8年2月1日 大阪毎日新聞社入社内定。
    2月 海軍機関学校退職願提出。
    3月8日 大阪毎日新聞社社員決定の辞令。
    3月31日付 海軍機関学校退職(最終講義は3月28日)。
    4月3日 「蜜柑」脱稿。
    5月1日 「新潮」誌第5号に「私の出偶つた事」発表(「蜜柑」「沼地」の併せ)。
    5月3日 親友菊池寛と長崎旅行に(約半月間)。帰途、大阪毎日新聞社に出社。
      *参考「芥川龍之介・年表作家読本」河出書房新社1992年刊
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(海軍機関学校の跡地。芥川が勤務していた海軍機関学校は関東大震災で罹災し移転、その跡地には海軍機工学校が建てられるが敗戦により米軍に接収されている。現在、南側の湾口は埋立てられ、海軍施設のあった広大な跡地には神奈川歯科大学・横須賀学院のキャンパスとなっている。)
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湘南・鵠沼 旅館東屋での狂気の交差 宇野浩二と芥川龍之介 http://zassha.seesaa.net/article/386256370.html
京都 芥川龍之介と宇野浩二の女買いの顛末記 http://zassha.seesaa.net/article/394984566.html
鎌倉 芥川龍之介の野間洗濯店下宿跡(和田塚) http://zassha.seesaa.net/article/22009376.html?1475175742
横須賀 横須賀線と芥川龍之介「蜜柑(みかん)」 http://zassha.seesaa.net/article/442379617.html
posted by y.s at 02:01| Comment(0) | 関東各地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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