2016年10月02日

奈良 円照寺 三島由紀夫「豊饒の海(一)春の雪」より

三島由紀夫が自らライフワークと位置付けた「豊饒の海」四部作の第一巻にあたる「春の雪」から、主要舞台となる円照寺(月修寺のモデル寺院)に関した部分を抜粋。 

<< 道のべの羊歯(しだ)、藪柑子(やぶこうじ)の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林、夥(おびただ)しい芒(すすき)、そのあいだを氷った轍(わだち)のある白い道が、ゆくての杉木立の闇へ紛れ入っていた。>>
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(円照寺の山門までの長く白い参道。約500mは山林・竹林を吹き抜ける風の音を聞きながら歩く。)

<< この、全くの静けさの裡の、隅々まで明晰な、そして云わん方ない悲愁を帯びた純潔な世界の中心に、その奥の奥の奥に、まぎれもなく聡子(さとこ=綾倉伯爵の娘)の存在が、小さな金無垢の像のように息をひそめていた。歩むうちに息が苦しくなり、清顕(主人公松枝侯爵の子息)は路傍の石に腰を下ろした。何枚も衣類を隔てているのに、石の冷たさは直ちに肌に触れるように感じられた。彼は深く咳(しわぶ)き、咳くほどに、手巾(ハンケチ)に吐いた痰が鉄銹(てつさび)のいろをしているのを見た。(略)
ーー彼はやっと立上った。このまま雪の中を寺まで辿りつけるか危ぶまれて来たのである。やがて杉木立の下に入ると風はいよいよ寒く、耳に風音がはためいて来た。杉の木の間の水のような冬空の下に、冷たい漣(さざなみ)の渡る沼が見えはじめ、これをすぎれば、さらに老杉は鬱蒼として、身にふりかかる雪もまばらになった。 >>
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(右手に沼というか大きな池が現れる。三島が描写したとうりだ。)

<< 清顕はただ次の足を前へ運ぶことのほかには念頭になかった。彼の思い出は悉(ことごと)く崩壊し、少しずつ躙(にじ)り寄ってゆく未来薄皮を、少しずつ剥がしてゆく思いだけがあった。黒門は知らぬ間に通りすぎ、雪に染った菊花の瓦を庇につらねた平唐門がすでに目に迫った。>>
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(清顕が気付かぬうちに通りすぎた黒門。)

<<−−清顕は二十一日の晩(ばん)大阪のホテルに泊り、あくる朝早くホテルを出て、桜井線帯解(おびとけ)駅まで汽車に乗り、帯解の町の葛の屋旅館という商人宿に部屋をとった。部屋をとるとすぐ俥(くるま)を命じて、月修寺を志した。門内の坂道を俥を急がせ、平唐門に就いたところで下りた。 >>
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(JR桜井線帯解駅。三島が取材で訪れた時のままの駅舎が、止まった時間の中で永遠に佇んでいるように見えてならない。「帯解の町の葛の屋旅館」は創作だろう。旅館どころか小さい商店といえど少し駅を離れると見当たらない。畑がどこまでも広がっている。右写真の突き当り風に見える所を右折すると円照寺方向。)

<< あくる日の二十四日の朝は、起きるとから不快で、頭は重く、体は倦(だる)かった。しかし、ますます行(ぎょう)じ、ますます苦難を冒すほかに聡子に会う手だてはないと思われたので、俥もたのまず、宿から寺まで小一里の道を歩いて行った。 >>
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<< 幸い美しく晴れた晴れた日ではあったが、歩行は辛く、咳は深まるばかりで、胸の痛みは時折、胸の底の砂金を沈めたように感じられた。月修寺の玄関にたったとき、又激しく咳に襲われたが、応対に出た一老は顔色も変えずに同じ断わり文句を言った。>>
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(主人公清顕が、恋人聡子が、親友本多が、何度となくくぐった山門。)

<< この日、大和平野には、黄ばんだ芒野(すすきの)に風花が舞っていた。春の雪というにはあまりに淡くて、羽虫が飛ぶような降りざまであったが、空が曇っているあいだは空の色に紛れ、かすかに弱日(よろび)が射すと、却ってそれがちらつく粉雪であることがわかった。寒気は、まともに雪の降る日よりもはるかに厳しかった。(略) 彼は心にひたすら聡子の名を呼んだ。時は空しく過ぎた。今日になってはじめて宿の者に病気が気づかれ、部屋は温められ、何くれとなく世話を焼いて来たが、彼は看護も、医者を呼ぶことも頑なに拒んだ。 >> 以上、「春の雪」(豊饒の海・第一巻)新潮文庫版より。

清顕の病状を知った学習院の親友本多繁邦は、大事な試験の期日が迫る中、東京から帯解の宿に駆け付ける。病に伏せる清顕に替って月修寺を訪れ、門跡に直々に会い、出家し染衣をまとう聡子に清顕の思いを伝えるべく面会を懇願するが徒労に終る。本多が帰京した二日後、衰弱した松枝清顕は、帯解の宿で二十歳の短い一生を終える。ここで四部作の最初の巻は幕を下ろし、第二巻「奔馬」へと転生してゆく。

月修寺のモデルとなった円照寺の略史(「寺院神社大事典」参照)
円照寺は奈良市山町の東方にある。俗に山村御殿と呼ばれる。号は普門山、臨済宗妙心寺派。本尊は如意輪観音。開山は後水尾天皇の第一皇女の梅宮。法華寺・中宮寺と並ぶ大和三門跡のひとつ。
寛永18年(1641年)梅宮が京・修学院に草庵を結んだのち、明暦2年(1656年)に八島村(奈良市)に移し、さらに13年後、山村(現在地)に寺地を定め、現在に至る。この信頼に足る事典には、門跡・山本静山尼が大正天皇の息女ではあるまいかという「噂」「疑問」などは一行も記載されていない。

 *帯解駅から円照寺周辺の参考マップ
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小説「豊饒の海」(四巻)関連略年譜
昭和40年
 2月20日 小説「音楽」中央公論社刊行。
 2月22日 小説「豊饒の海」(四部作)執筆のため京都、奈良に取材旅行。
 2月24日 三島、京都上京区堀川寺之内通の尼門跡・竹之内御所(源氏物語ゆかりの薄雲御所)と
      光照院(竹の内御所から東へ徒歩圏内)を訪問。
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      (京都の尼門跡寺院もモデル地として選択肢に含まれていたのだろうか。) 
 2月26日 三島単独で奈良帯解の尼門跡・円照寺(主要舞台となる月修寺のモデル)を取材訪問。
 2月27日 帰京。
 6月 「豊饒の海」第1巻「春の雪」起筆(「ライフワーク」に取り掛かる)。
 9月 文芸誌「新潮」に「春の雪」連載開始。
 11月18日 三島、帯解の円照寺訪問。
昭和41年
 6月17日 「豊饒の海」第2巻「奔馬」の取材で奈良訪問。
 11月25日 「春の雪」脱稿。
 12月 「新潮」1月号で「春の雪」連載終了。
昭和42年
 1月28日 第2部「奔馬」第1回を執筆。
昭和45年
 7月20日 京都に到着。 
 7月22日 最後の帯解・円照寺訪問。「豊饒の海」最終巻「天人五衰」の取材。中井執事が対応。
 8月11日 最終巻「天人五衰」ほぼ脱稿。大作「豊饒の海」全四巻の完成に約6年を費やす。
 11月25日 10時13分過ぎ、保管中の「天人五衰」最終回原稿140枚(11月25日の日付)を
      お手伝いに託して外出。その約2時間後、市ヶ谷で割腹自決。
   *年表は「三島由紀夫全集42巻年譜」2005年・「三島由紀夫・年表作家読本」1990年を参照。
   *円照寺は、非公開(拝観不可)。
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posted by y.s at 16:06| Comment(0) | 関西 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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