
<< 中原中也の生前、私は彼の写真は一枚しか見たことがなかった。それは現在中也像として最もポピュラーなお釜帽子の肖像写真である。大正十四〜五年、十八〜十九歳と推定、その頃有賀という、銀座の有名な写真館でとった。主に中流の上ぐらいの家のお嬢さんが見合写真をとる写真屋だった。
この写真が彼の死後、詩集の表紙や挿画になるうちに修正されーー特に瞳が拡大されーー美化されて行った経過については、五年前に書いたことがある。中也はなぜこんな写真をとったのか。(略)
この写真を見せられたのは昭和三年だったが、現物の中也とあんまり違っているので、「何だ、こりゃあ」といったら、彼はくさって、それから自分の写真を見せなくなった。それが今日、彼の代表的写真像になっているのだから、皮肉である。(略)お釜帽子と当時いわれたのは、黒ソフトのてっぺんを平らにつぶしたものである。短頭であった中原にはこの方がかぶり易く、昭和三年にもこの形にしていた。 >>
「大岡昇平全集」第18巻に収録の「詩人と写真」より抜粋(筑摩書房1995年刊)
昭和3年当時、旧制成城学院高等科文科の学生だった大岡昇平(小説家)は、小林秀雄を介して中原中也と知己になっている。よって中也の写真を見たのは知り合った直後のことのようだ。その時、何時に撮ったものか話題に上がらなかったようで、このエッセイでは撮影時期は幅を持たせた言い方になっている。大岡は京都帝大文学部に進んだ後、中原中也・河上徹太郎らと同人誌「白痴群」を創刊(昭和4年4月)している。大岡が推定した大正14〜15年の中原中也を取りまく情況は・・・・
大正14年2月20日に京都・上京区寺町今出川一条目下ル中筋角の山本方(建物現存)に移転、1ケ月も経たない3月10日(〜19日までの間)に長谷川泰子を伴い上京。下宿を探す間、早稲田鶴巻町の旅館早成館に投宿(旅館は現存せず)。数日滞在した後、早稲田3丁目の下宿に引き移る。3月26日、落ち着いたのか(家財道具はほとんど無いので元から落ち着いているのだが)、友人(正岡)と浅草に散歩に出かける。正岡の日記には<映画「シラノ・ド・ベルジュラック」を観た後、銀座に行く>、全集の詳細年譜(角川書店版)に「銀座」の2文字が現れるのはこの箇所だけなのだ。この時点で中也17歳、泰子20歳。
上の写真の下部に文字らしきものがモヤッているのに気づくだろうか。

拡大してもたいして変わらないが、なんとかARIGA・・・有賀写真館のスタンプと判る。
有賀写真館は現在、銀座外堀通り沿いに本店を構えている。
本店住所は、中央区銀座7-3-6有賀写真館ビル。
が、中也がカメラの前に座った大正14年当時の写真館はここではない。昭和9年に数寄屋橋に先代の有賀写真館ビルが建設されたところまでは辿れるのだが、大正4年創業の場所(銀座)と、恐らく大震災で被災した後の新写真館(中也はここで撮っている)の位置が不明なのだ。

昭和9年、数寄屋橋に建てられた先代の有賀写真館ビルの位置。戦後、阪急ビルが区画いっぱいに建てられ、現在地に移転した。

参考 「中原中也全集別巻 写真・図版篇」角川書店2004年刊
中央区特殊火保図・昭和30年版
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