生まれて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、
その年の暮れ、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。
中の数篇に感激。>>
(中原中也が下宿した菊ヤと丸太町通西詰に店を構えた古本屋4軒。最も丸太町橋際といえるのは丸三書店。対岸の東詰際には当時古本屋は見当たらない。橋下に設けられている明治時代を描いたレリーフには東詰際に古本屋が確認できる。)
中原中也「我が詩観」内の「詩的履歴書」より抜粋(昭和11年8月)。
「自筆住所録」昭和12年2月より大正12年部分。
<< 大正十二年三月 京都立命館中学転学。
京都
1、岡崎西福ノ川沢田方八月迄。
2、九月ヨリ岡崎ショー護院西町九藤本大有方(十月迄)
3、丸太町中筋菊ヤ方(翌年三月マデ)
(以下、略) >>
「中原中也全集第4巻 評論・小説本文篇併せて解題篇」 角川書店2003年より
(矢印位置に「古本・丸三書店」があった。丸太町橋西詰まで家屋は2軒のみ)
年譜(旧制立命館中学校入学と菊ヤ方時代)
大正12年(1923年) 16歳
2月 高橋新吉「ダダイスト新吉の詩」刊行
4月 京都の立命館中学校(旧制)に補欠合格。第三学年に編入。
(3年次の授業は荒神口広小路キャンパス内の校舎=出典不確定、
4年次は北大路校舎(現・立命館小学校・校舎位置は真逆で北側に主要校舎があった)
上京区岡崎西福ノ川、沢田方に下宿。
7月25日 9月7日まで立命館中学校夏季休業。このころ帰省。
9月 上京区聖護院西町九藤本大有方に転居。現在の西尾八ツ橋本店の西隣り。
まもなく北区小山上総町に転居。立命館中学校の近く。
11月 上京区丸太町中筋、菊ヤ方に転居。
12月 京都市内の路上で永井叔に話しかけ、下宿に招く。
まもなく永井の紹介で表現座の稽古場で長谷川泰子と知り合う。
ダダの詩を書いたノートを泰子に見せる。
大正13年(1924年) 17歳
4月 立命館中学校第4学年に進級(北大路校舎)。
北区大将軍西町椿寺南裏の谷本方2階に転居。
4月17日 谷本方で長谷川泰子と同棲を始める。
*主に「中原中也全集別巻 写真・図版篇」角川書店2004年を参考。
(丸太町通から中町通を下った所の「菊ヤ」跡=矢印。戦後は山田旅館。)
<< 十四年三月東京へ移るまでの詩生活から、中原は二冊のノート・ブックを残している。その一冊は高橋新吉風の詩で埋められ、他の一冊、中原が「ダダの手帳」と呼んでいたアフォリズム集は、河上徹太郎の手許で、戦災で焼けた。(略)
彼は何故高橋新吉に「感激」したか、「ダダイスト新吉の詩」は、その年の二月辻潤編輯(へんしゅう)、佐藤春夫序文で出版されていた。白のカンバスに薄赤で裸女歩行の形を木版で刷った奇妙な装幀で、当時詩集の新機軸であった。
皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
倦怠
の如き表記法であった。「新吉はたしかに和製ランボウの資格があるが、あいにく己がベルレイヌでないことは甚だ遺憾だ」と辻潤が跋文(ばつぶん=あとがき)に書いた。 >>
「京都における二人の詩人」 「大岡昇平全集」第18巻筑摩書房1995年から
(白のカンバスに薄赤で裸女歩行の形を刷った「ダダイスト新吉の詩」)
(鴨川対岸からの丸太町橋と丸太町橋際(西詰)の古本屋跡)
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