2016年10月08日

千駄木 森鴎外邸前の幽霊下宿 佐藤春夫「天下泰平三人学生」より

<< 先生(*生田長江)と相談の上で仮りに笈(きふ=背負う籠・箱のこと)を解いたのは林町に近い大観音前のむさくるしい下宿で、その後は同じく附近に宿を求めて隅々団子坂上の観潮楼(*森鴎外邸)の門と面したあたりに、崖に沿うて建てられた二階屋の壁板に「貸間有り」の貼紙があるので入って見ると取次に出たのが二十ばかりの小ざつぱりとした容貌の女中で、部屋を見たいといふと改めて出たのは女中が「奥さん」と呼ぶ三十前の赤てがら大まるまげの年増で黒繻子(しゅす)の襟のかかった着物を着てこれはその風俗にふさはしい濃艶な細君であった。家は見かけは二階だが、地上に二階、地下に崖に沿ひ崖にかくされてまた二階かくれてゐるというやふな妙な建て方の二階で、空いてゐる部屋といふのは低い階段を二つおりた最も奥まった最も下の部屋であった。 (略) 東と南とに開けた肘かけ窓には上野の満開の桜や不忍の池水が春先にどんよりと白くかがやいて一望のうちに見える。夕方には上野の鐘が聞えて、街の燈が遠く連って見えるであらう。よい眺めである。既に観潮楼門前といふ事が大に気に入つてゐるところへ、三人の美女あり、またこの眺望があるために部屋もしばらく居るうちには入つた瞬間ほどには陰気でもなくなつた。 >>
佐藤春夫「天下泰平三人学生」昭和28年1月「小説公園」初出。「佐藤春夫・作家の自伝」1994年刊より。
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(観潮楼門前の下宿屋があった場所。建物は崖下に2階分、地上(=藪下通り側)に2階分、計4階建の元遊女屋の木造の寮であった)

佐藤春夫(当時18歳)が、和歌山県新宮町の新宮中学校(旧制)を卒業し、再上京後、森鴎外邸の真ん前に数カ月間住んだのは、明治43年4月であった。生田長江に本格的に師事、与謝野鉄幹の新詩社に参加した時期であった。9月には永井荷風が教鞭をとっていた慶応義塾大学予科(三田)に入学する。
この下宿の「その後」が語られている随筆「化け物屋敷一号」(佐藤春夫「詩文半世紀」収録)から抜粋。

<< 近ごろ観潮楼址に行ってみると、コンクリート建ての学校敷き地となって、わたくしのしばらく住んだ危っかしく奇態な家ももう無くなってしまっていた。
その家は、むかし根津の遊女屋の寮として建てられたもので、遊女がひとりこの家で客と心中しそこなって死んでからは化け物屋敷として、しばらくは住む人も無かったのに、後にそんな噂などは気にしない人がこれを買い取って住み、部屋が多いから貸し間にしていたのだというが、いつも病人が出たり、何か不祥事があって、それらの貸し間には住みつく人がなかったと後に聞き知ったが、わたくしの住んだのもそんな部屋であったと見えて、わたくしはわけもなくわが居室に妖気を感じて夜などひとりわが部屋に帰ることが忌まわしく、後にはいやな夢を毎晩見るので、このすばらしい眺望と大丸まげの親切に美しいおかみさんのいる、そして長江先生の家も近いこの下宿には百日とは住まず、あまり健康な家ではないと気づいて移転した。(略)
この化け物屋敷のわたくしの部屋の背後の路面に出たところにあった便所の窓からは、観潮楼の二階の一室の鴎外漁史の書斎らしく思われる東向きの窓が、ま向かいに見えたものであった。(略)
近年、鴎外令息、森於菟(おと)博士に質してみると、わたくしの見た窓の灯はやはり老先生の書斎のもので、但し鴎外はいつも電灯をつけっ放しで外套を引っかぶって机にうつ伏せに眠り、眼がさめると読んだり書いたりするのが習慣であったとか。 >>
  *森於菟(森鴎外の長男・異母妹に作家森茉莉)1967年12月21日没。

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(左右写真とも建替え前の観潮楼址に立つ鴎外記念館。左写真は18歳の佐藤春夫が見た角度)

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(左写真 藪下通りの北東側は崖。上野の山が一望でき、汐見・観潮の名が残るように東京湾が遠望できたのだろう)
posted by y.s at 22:44| Comment(0) | 東京東南部 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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