<< 私は父母の葬式に就ては何の記憶も持つてゐない。存命中のことも少しも覺えてゐない。父母を忘れるな、思ひ出せと人々が私に言ふ。思ひ出すにも思ひ出しやうがない。寫真(しゃしん)を見ると、繪(え)姿でもなし生きた人間でもなしその中間のもの、肉親でもなし他人でもなしその中間のもの、といふ氣がして變な壓迫(あっぱく)を感じ、寫真と私とが顔を見合つてゐるのがお互恥しい。人から父母の話をされてもどういふ心持で聞いてゐればいいのかに迷つて早く切り上げて欲しいとばかり思ふ。(略) >>
「葬式の名人」大正12年文藝春秋5月号初出・「川端康成全集第2巻」新潮社より
(料亭相生楼の敷地内南側に川端生家があったという。)
(料亭相生楼正面玄関横の生誕之地碑)
「川端康成全集第33巻」新潮社1982年に収録されている「自筆年譜」から生誕〜2歳までを抜粋。
明治三十二年(一八九九年)
六月十一日、大阪市天満此花町に生れる。
父榮吉、母げん。
父は醫師(いし)、當時大阪市の某病院の副院長。東京の醫學校を卒業、また浪華の儒家易堂に學び、
漢詩、文人畫(画)などを樂しみ、文學趣味もあつたらしい。
胸を病み、虚弱。母は黒田家の出、粗母かねも同じく黒田家の出。
姉芳子と二人きやうだいであつた。
明治三十四年(一九〇一年)一歳
父、死ぬ。
明治三十五年(一九〇二年)二歳
母、死ぬ。
*川端康成全集第35巻収録の年譜には、「誕生日は六月十一日ではなく、六月十四日に大阪市北区此花町一丁目七十九番屋敷にて出生」と記され、川端本人は「終生六月十一日に誕生と思い込んでいた」と併記されている。
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