2016年10月12日

浅草 関東大震災と富士小学校 川端康成「空に動く灯」より

震災直後の大正13年に発表された短編小説「空に動く灯」から。「我観」誌5月号初出。
<<秋空が高く澄んでゐる。
その頃、東京に住む人が高臺(たかだい)に登つて展望を得た瞬間には、ふと我を忘れた歓喜で心が新しくなる習はしであった。大地震の大火で焦け死んだ大地を、二月とたたぬうちにバラツクの假(かり)建築が飾り覆うた。それには人の心を感動で染める多くのものがある。
浅草公園の裏で、✖✖警察署と✖✖尋常小學校とだけがあの火焔のなかに姿を崩さなかった。
小學校は鐵筋コンクリイトの三階建の建築である。
日曜日である。金原訓導は古い友人とその學校の屋上庭園の塔に登って、復興の門出をした都(みやこ)を見晴してゐた。通り一つを距つて警察署の屋上で、黒服の警察官がゆつたりと東西南北を見遥かしてゐたが、突然帽子を脱いだ。金原訓導は笑ひながら、クレオンで寫生してゐる小學生の傍らに立つてゐた友人を呼んだ。(略) 友人は訓導から渡されたクレオン畫と實景(じっけい)とをちよつと見較べてから、子供に畫を返した。平田はこの學校では、繪(え)の天才である。青空と、浅草観音の五重塔と、塔の前の立樹と、焼け焦げた電柱一本と、バラツクを一軒畫いてある。>>
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(川端は、向いあう象潟(きさがた)警察署と浅草區立富士尋常小學校の名称を伏字にして震災直後の様子を描く。現在も両者は、建物の形を変えながらも隣りあっている。写真は富士浅間神社側の正面玄関。)

<<一階の教室は浅草區役所の配給品の倉庫に使はれてゐて、その手拭も配給品である。庭の一方には醬油樽、炭俵、梅干などが積み上げてある。(略) 浅草公園やその近くに露宿したり掘立小屋(ほったてごや)を立てたりしてゐた焼け出されを、この小學校に収容したのは地震の後八日目であつた。(略)水道が永く止つたきりだつたから、水は初め✖✖警察署の裏の井戸から汲んでゐたのだが、衛生上危険だといふので、役所のタンク自動車が遠くから清水を運んで來ることになつてゐた。學校が始まる時分には、水道も通じ、風呂桶も二三据ゑつけられた。>>
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(小学校西面の写真。奥に浅間(せんげん)神社が見える。警察署は左側。地図は戦前=昭和初期。)

<<少し物語じみるが、この小學校は鐵筋コンクリイトに新築された真新しさを、夏休みの終つた九月一日の午前に唯一度兒童を入れただけで、焔になめられたのであつた。(略) 大震災の強い刺激の後の混亂の中では、人々は異常なものを眺めても異常とは感じなかつた。殆ど何物にも驚かなかつた。人間が鐵棒で叩き殺されるのを見ても、道の真中で雙兒が生まれても、三日も食はず飲まずにゐても、あたりまへのやうな氣がしてゐた。>>
 「川端康成全集第2巻」新潮社1980年刊から抜粋。

「浅草の生活記、風俗記としては、甚だ残薄なのは自分も認めるが、それでも尚、浅草見聞記、印象記として、恐らくこの作品は不滅であらうと考へてゐる」と川端の云う新聞連載小説「浅草紅團(くれなヰだん)」にも✖✖警察署と✖✖尋常小學校校が登場する。その部分を抜粋引用。
<<弓子と男は煤(すす)けた石油ランプの火影にゐるのだ。
「象潟(きさがた)警察の向ひだわ。分る?富士尋常小學校だわ。」
「ああ。」と、男は思はず釣り出されたらしい。
「それごらんなさい。おとぎばなしでもなくなつたわけね。だけど、あの學校からして、少しお話じみてるわ。鐵筋コンクリイトの三階に新築して、九月一日の朝・・・・>>
内容は「空に動く灯」とほぼ重複する展開なので、以下略。

尚、川端康成は、関東大震災発生後、直ちに本郷から浅草まで駆けつけている。燃え盛る街路を黒煙に視界を妨げられながらの所要時間2時間なのだから、これは疾走といっていいだろう。幾つかのエッセイに後日談を混えて、震災見聞を書き残しているが、人気を博した初期の代表作「浅草紅團」にも当日の行動が書かれている。
<<十二階の塔は、大正十二年の地震で首が折れた。私はその頃まだ本郷に下宿住いの學生だつた。昔から浅草好きの私は、十一時五十八分から二時間と経たぬうちに、友だちと二人で、浅草の様子見に行つた。>>

富士尋常小學校略史(富士小学校HP、他参照)
明治33年(1900年)12月 浅草區馬道二丁目十一番(現・台東区浅草4-48)の校舎にて開校式。
大正6年(1917年)2月 総2階建木造校舎竣工。
大正10年(1921年)4月6日 浅草田町の大火で全校舎類焼。午前8時半、東京市浅草区田町1-38宮戸座俳優中村富右衛門方から出火。焼失戸数千数百戸に及ぶ。11時過ぎ象潟署・富士尋常小学校(9時類焼?)が火炎に包まれる。昼過ぎ浅草公園六区から十二階裏手一帯類焼。
大正12年(1923年)6月 鉄筋コンクリート3階建の新校舎竣工。東洋一の新式校舎と宣伝される。
大正12年(1923年)9月1日 富士尋常小学校4校に分散した児童を一堂に会して始業式を挙行。数時間後(11時58分)、関東大震災発生。新校舎の一切の設備が灰塵に帰す。甚大な被害を被った横浜を始めとして死者・行方不明数は10万5千余名。特に両国の陸軍被服廠跡の惨状は悲惨そのもの(死体の山)。
大正15年(1926年)3月 富士尋常小学校復興工事完成。
昭和20年(1945年)3月 米軍空襲で校舎全焼。
昭和46年(1971年)11月 鉄筋コンクリート4階建の新校舎落成。
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(左写真)象潟警察は現在、浅草警察署と名称変更。富士浅間神社境内から。 (右写真)富士尋常小學校時代の緊急用水の井戸ポンプなのか? 位置は地図に印。 
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posted by t.z at 21:18| Comment(0) | 東京東南部tokyo-southeast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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