<< 篠山城は徳川家康が西国大名に申しつけて構築されたものだ、と城内の立札に書いてある。大坂城が陥落する七年前に、大坂方と見られてゐる西国十三箇国の大名に奉仕を命じ、総構への周囲一里ちかくのこの城を、七箇月の短期間に落成させたものだといふ。しかも石垣に築く石は、墓石やお宮の玉垣や石崖の石など使はないで、みんな新しく切り出したものを使はせたといふ。
大した徳川家康の睨みである。このために西国十三箇国の大名は、人夫八万人を引きつれて、慶長十四年九月十八日までに篠山へ到着した。人夫八万人を八百組に分け、百人を一つの組として、木石運送に扱(こ)き使つたといふ。今でも城の石崖には、ところどころの石に組の記号を刻みつけてある。(略)>>

(篠山城本丸石垣と石垣下の犬走、北側の三の丸から)

(篠山城本丸大手門と大手馬出、北側の三の丸から。上写真の右方向)
<<現在、この城の建造物はすつかり無くなつて、残つてゐるのは石崖と外濠と馬出曲輪だけである。かつて私の亡友は、「城春にして草木深し」といふ言葉を自己の好みに意訳して、「城といふものは、廃墟になつてから美しく見えるやうに造るものだ」と云つた。この言葉には、各種各様の意味と皮肉がこもつてゐる。私として、廃墟となつた城址は一概に嫌ひではない。私は城の本丸の井戸をのぞいて見て、それから天守台にあがつた。石崖のはなから下をのぞくと、足がすくむ。(略)>>

(外濠南門の防御のための馬出曲輪。土塁が築かれている。)

(南馬出曲輪の土塁。石垣は設けられていない。)
<<この城には、馬出曲輪が二つ殆ど完全な形で残つてゐる。濠の石垣の周囲が、しんとした感じを出してゐる。これを構築した当時、石工の技術が最も進歩してゐたのではないだろうか。石工どもは怠けると親方に玄能(げんのう=かなづち)で頭をなぐられるので、いやいやながら築いたものであるとしても、実真底は極めて実直な人たちであつたらう。石の築きかたにその実直さが偲ばれる。>>
以上、井伏鱒二「篠山街道」昭和31年6月「別冊文藝春秋」初出 「井伏鱒二自選全集第9巻」新潮社1986年刊より抜粋。

(南〜西外濠。静けさのなかに佇む篠山城。)
直木賞作家立原正秋も篠山を訪れ、随筆「謎を秘めた篠山城跡」を残している。
<<夕陽に城の石垣が照り映え、濠では、枯れた蓮の葉が、海抜二百十メートルの盆地にある篠山町の冬を感じさせた。私は東の外濠に沿って、かつて本丸があった箇所を眺めあげながら、南濠の方にむかって歩いていた。(略)城の石垣は、南濠から眺めたのがいちばんよかった。それはまぎれもなく歴史を感じさせてくれた。よく、かっての城下町で城を復元しているという話をきくが、それはもう城のある町ではない。そんな現代に造られた城は城ではない。それは観光のための飾りものにすぎない。その意味で、篠山には本当の城があった。(略)>>

(南濠・南馬出。立原氏も外濠沿いのこの道を歩いたことだろう。)
<<城の建物はひとつも残っていないが、石垣と濠が城を城を感じさせてくれるのである。濠のまわりには、土塀と入母屋造りの武家屋敷が軒をつらねている。なかには廃れかかった家もあり、解体している家もある。それは滅び行くものの美しい光景であった。>>

(西外濠沿いの武家屋敷群。)
「立原正秋全集第23巻」角川書店1984年刊より抜粋。
井伏鱒二リンク
山梨 甲府城址の目ざわり石塔 井伏鱒二「甲府−オドレの木の伝説」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447573364.html