2016年10月24日

神田南神保町 谷崎潤一郎の文壇デビュー 「青春物語」より

<<「三田文學」に「谷崎潤一郎氏の作品」(?)と題する永井先生の評論が載つたのは、多分明治四十三年の夏か秋だつた。永井荷風先生はその前の月の「スバル」か「三田文學」にも、私の「少年」を推擧する言葉を感想の中に一寸洩らしてをられたが、今度のは可なりの長文で、私のそれまでに發表した作品について懇切丁寧な批評をされ、而も最大級の讃辭(さんじ)を以て極力私を激賞されたものだつた。私は前に新聞の文藝欄の豫告(よこく)を讀み、それが掲載されることを知つてゐたので、雑誌が出るとすぐに近所の本屋へ駆け付けた。そして家へ歸(かえ)る途々、神保町の電車通りを歩きながら讀んだ。私は、雑誌を開けて持つてゐる兩手の手頸(てくび)が可笑しい程ブルブル顫へるのを如何ともすることが出來なかつた。あゝ、ついに二三年前、助川の海岸で夢想しつゝあつたことが今や實現されたではないか。果して先生は認めて下すつた。矢張(やはり)先生は私の知己だつた。私は胸が一杯になつた。足が地に着かなかつた。>>
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(文芸誌「三田文學」に掲載された永井荷風の激賞の言葉に歓び震えながら歩き読んだ自宅近くの南神保町の電車通り。*大正7年オープンの「矢口書店」はまだ無い。)

<<一朝にして自分の前途に坦々たる道が拓(ひら)けたのを知つた。私は嬉しさに夢中で駆け出し、又歩調を緩めては讀み耽つた。私の喜びは、家へ歸り着くとやがて一家の喜びに變つた。當時私の一家族は窮迫と不幸の絶頂にあつて、私の父は矢張蛎殻(かきがら)町の取引所に通つてゐたものゝ、元來相場師に適しない几帳面な性質だつたから、一度失敗してからは容易に盛り返すことが出來ず、神田南神保町のとある路次の奥の裏長屋に逼塞してゐた。その上两親の最愛の長女で、私の妹になる十八歳の娘は腸結核に罹り、死の床にあつた。>>
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(三田文學を手にした谷崎青年が「路次奥の裏長屋」に戻るために曲った角地。南神保町10番地に現在残る路地といえばここだけ。)
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(左側が10番地で裏長屋推定地。現在は北沢ビルが旧10番地いっぱいに建っている。右側は旧4番地。当時の路幅は半分もない狭さだったろう。西を背にして東方向を撮影) 

<<現にその後の「スバル」へ載せた「少年」や「幇間」等も、私はたゞで書いたのである。が、荷風先生の推挙があつてから間もなく、「三田文學」へ「飈風(ひょうふう)」を書いた時は、黙つてゐてもちやんと先方から稿料を届けて寄越した。次いで中央公論主筆瀧田樗陰(たきたちょきん)氏が神保町の裏長屋へやつて來た。私は直ちに「秘密」を書いて中央公論社へ送り、一枚一圓(=円)の稿料を貰つたが、その次に書いた「悪魔」からは一圓二十銭になつた。私は忽ち賣れつ兒(うれっこ)になり、順風に帆を張る勢ひで進んだ。>>
以上、谷崎潤一郎「青春物語」昭和7年9月号〜昭和8年3月号「中央公論」連載より抜粋。
「谷崎潤一郎全集第13巻」中央公論社1982年刊に収録 (ルビは一部原文に無し)
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(死蔵中だった昭和42〜43年刊の「三田文学」2冊。学生時代に何処かの古本屋で購入したもの。)

谷崎潤一郎(24歳)の明治43年(1910年)
 4月 日本橋區箱崎町より神田區南神保町10番地(神保町2-5)の裏通りの長屋に転居。
 5月 永井荷風(作家・慶應大学文科教授)主幹の「三田文學」創刊(5月号)。
   <<永井先生の評論が載つたのは、多分明治四十三年の夏か秋>>
 9月 小山内薫を中心に、大貫晶川、和辻哲郎、木村荘太らと共に「新思潮」(第二次)を発行。
 11月 「刺青」発表。
     日本橋大伝馬町の三州屋で開催された「パンの会」に出席。永井荷風に初めて面会。
 12月 「麒麟」発表。
年譜参考:「谷崎潤一郎全集第26巻」中央公論社より
 
参考地図 明治末期の神田區南神保町 谷崎潤一郎の裏長屋
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posted by t.z at 04:35| Comment(0) | 東京東南部tokyo-southeast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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