2016年10月25日

大阪西成 映画「太陽の墓場」(大島渚監督)釜ヶ崎ドヤ街ロケ

映画「太陽の墓場」は、松竹大船撮影所に所属していた時代の大島渚が脚本(石堂淑朗と共同)・監督を担当したカラー作品。封切は半世紀以上前の昭和35年8月9日。
好きな大島作品を3本挙げてみろといわれたら、迷わずこの3本を選ぶ。「日本春歌考」(立教大の✖✖さんが出演)、「新宿泥棒日記」(唐氏のぽっちゃりした腹と横山さんのおっぱいがセクシー)、そしてこの「太陽の墓場」(なんといっても釜ヶ崎ロケ、この地で、ストリップの女王一条さゆりが、野坂昭如のマッチ売りの少女が、息絶えている)。

以下は「大島渚著作集第3巻」2009年刊より抜粋。画像引用は本編・予告編から。
<<『太陽の墓場』のテーマ いわゆる「釜ヶ崎」大阪の西成地区で、私が映画『太陽の墓場』を撮ったのは、三十五年(注:昭和35年)の夏である。大学(注:京大法学部)のころから、私は大阪へ行って、その付近を通るたびに足をとどめて、その異様で強烈な体臭を発散する町にひかれていた。(略)さすがに、はじめて釜ヶ崎にはいる時は恐ろしかった。真昼の太陽が照りつけるほこりっぽい大通りを私たちはカメラを持たず、できるだけ汚ない服装をして歩いた。それでも目立つのだった。(略)何日か歩き回って、体がかゆいような、におうような感じにとりつかれながら、私たちはいよいよ執着を深め一種異様なシナリオを書きあげた。そして私たちは夕暮れのガードごしに見た血のような太陽が、ここで私たちが描こうとする人間群と状況の象徴のように思えて、この作を『太陽の墓場』と名づけたのであった。>>
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現在の釜ヶ崎(のはづれ辺り)の風景。三角公園の写真より新今宮駅(南海本線とJR関西本線のクロスポイント)附近の風景のほうが作品にマッチする。

<<普通、ロケ地では、その土地の顔役に整理などをたのむのだが、西成には顔役が多すぎて(八十組もあると伝えられた)たのみようもなかった。そのことは、大変不安に感じられたのだが、私たちの若いマネージャーと製作主任は剛腹な男であって、警察一本で行く、あとはその時その時で処理しようと胸をたたいた。>>
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<<『太陽の墓場』で主演女優炎加世子が「セックスする時が最高よ」と言ったことが喧伝され、私の映画はいよいよ色濃く性的な色彩を帯びて見られるようになった。炎はその直前にひとつ年下の十八歳の少年と心中未遂事件を起こしていた。私たちは撮影中に何か事件を起こされてはと内心ハラハラしていた。だが何事も起こらなかった。>>
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「太陽の墓場」予告編よりヒロインの炎加世子(撮影当時19歳)。

<<『太陽の墓場』の撮影中、このお姫様(注:若くて痩せていた頃の松井康子)は私に面接に来たのである。十数年を経て、彼女はその日の印象を昨日のことのようになまなましく語ってくれた。大阪は天王寺の「新宿」という旅館、階段をトントンと(ドタドタではない)上がって突き当たりの部屋にスタッフがぞろぞろいて、その真ン中に半分裸の私がいて、隣に渡辺文雄がいて。彼女にやらせようとしたのは、あいびき中に襲われて恋人を殺され、自分は犯されて発狂する女学生の役であった。それにぴったりの彼女だったのである。そしてその時、のちの「ピンクの女王」はそんな役をやるのは悲しいとさめざめと泣いたのであった。>>
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「太陽の墓場」大島組が宿泊した旅館新宿跡。現在は旅館業を廃し、飲食ビルに業態を変え営業中。

以下、「太陽の墓場」釜ヶ崎周辺ロケ地と現状(位置はほとんど錯覚気味)。
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公衆電話ボックスが増設されている。
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塔の周辺に電柱が現在も存在するのかどうか?真剣に探していない。
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奥の突き当りの家屋が撮影当時と同じに見える・・錯覚か。
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明らかに異なる場所だがアーチの形状が似ているので可とする。聖地巡りは性格的(いい加減・ずぼら)に不向きなのだ。ドヤ住いのおっちゃん達に「この場所、わかる?」と聞いてまわったり、取材能力はあるようなのだが。
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大島監督と同窓(京都大学)の戸浦六宏(ろっこう)氏=右端白シャツ。生まれた時から亡くなるまで顔が変わらない。小学校に入学した時も、創造社メンバーになった時も、この顔なのだ。

<<『太陽の墓場』のあとあたりで死んでしまえば、私も惜しまれたかもしれない。また喜ぶ人もあったかもしれない。しかし私は死ぬわけにはいかなかった。『日本の夜と霧』で松竹を離れて、『飼育』をつくり、東映でも『天草四郎時貞』をつくったあと、映画をつくれない三年間があったが、それでも私は死ぬわけにいかなかった。>>
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posted by t.z at 05:09| Comment(0) | 大阪osaka | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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