「濡れ暦」は、短編集「姦」新潮社1976年刊に収められている。表題作「姦」をはじめ、「紅あかり」「地底夢譚」「母紅梅」「末期の蜜」「至福三秒」「童貞指南」「処女かいだん」「色流れ」と読み始めると止まらない。
<<昭和三十三年三月をもって、わが国から女郎淫売娼婦のたぐいは姿を消したことになっている、そして身のふりかたに困る彼女たちのため、お上(かみ)は売春婦更生施設なるものを、お座なりに設け、体売らずとも手に職をつければと、ミシン編物和裁を収容者に教えた、その効果のほどはともかく、少しでも気の利いた女なら、お上のお節介ふり切り、自分なりの生きかたをえらぶのが当然、結局、管理された売春のしくみの中でしか、生活しようのない女たちが、施設に残り、そして彼女たちのほとんどは、手に職つけるだけの、知能も忍耐もなかった。>>

(大谷川沿いからの橋本遊郭跡。右は淀川堤上の旧京阪国道。「都名所図会」安永9年版に<橋本>が図版入りで遺され、舟渡しの地と紹介されている。<八幡(やわた)山の西南にあり。大坂街道の駅にして人家の地十一町ある茶店旅(はた)ごや多し>と紹介されている。江戸期より旅籠屋が連なり賑い、当然のごとく飯盛女・茶汲女が旅人の世話をしていたことだろう。)
<<二十四年(注:昭和24年)に入ると、料飲店禁止令の御時世ながら、闇の料理屋が復活して、自宅でのどんちゃん騒ぎはすたれ、お絹、京阪沿線の飲み屋に勤めて、誘われれば、座布団かた敷いて、ちょんの間も稼ぐ。ようやく次兄が大陸からもどり、すると両親妹二人も、まだ職さえ決らないのに、大黒柱ともてはやし、「商売してるもんが身内におったら、うち等の縁談にさわる」と、お絹を邪魔もの扱いにする。べつだん家に未練はなく、しげしげ通って来る四歳上の男と、枚方(ひらかた)に同棲し、ふれこみは新聞記者ということだったが、まったくのぐうたら、また仲居として夜を稼ぎ、もっと有利な勤め口があるからと、男にいわれはめこまれたのが、橋本の廓だった。>>
(以下、橋本遊郭の残滓。京都府八幡市橋本中ノ町一帯。)
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<<三十一年に売春防止法が制定され、施行まで二年の猶予があって、たいていの女はアルサロ銘酒屋にもぐりこんだが、お絹灯の消えるまで橋本にいて、「やすらぎの国」(注:大阪市郊外の売春婦更生施設)に移ったのだ。(略) 気働きも人並み以上で、所長はどうして、この施設からとび出そうとしないのか、不思議に思うことがあった、三十四歳で、収容されたわけだが、さらに年上の、しかも醜い女が、「まあね、長の年月使って来た人だから、ここは一番骨休めさ。七日もほっとくと、処女膜が生えてくるんじゃないかねえ」へらず口をたたき、只飯だけくらって、たちまちとんずら、もっと若い女なら、三日ともたなかったのだ。(略)
なんの当てがあるわけでもなかった。しかし、若者たちの、ひたむきにむしゃぶりつくその息づかいや、体臭にふれて、お絹は、やっぱしうちは淫売なんやと、しみじみ思い当り、この十数年のやすらぎが、急に手ざわりうすく思えたのだ、だまされ利用され、そして男の体液に濡れつづけた年月の方が、はるかに確かな印象でよみがえり、果たして商売できるかどうか、自信はないが、もう一度ためしてみたい、その果ては脳梅になり、お初の如く、衛生十訓をうぶやきつつ、廃人として生恥さらしても悔いはない、いや、早くお初の境地に入りこみたい。(略)
うちは淫売や、淫売が男に抱かれんでどないする、くりかえしくりかえしつぶやく。>>

(明治44年の京阪電鉄開通が、中書島遊郭・橋本遊郭に俄か景気をもたらし、その活気は戦時色が濃くなるまで続く)
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