2016年10月27日

大阪船場・御霊神社 御霊文楽座 谷崎潤一郎「青春物語」より

明治45年(1912年)4月、谷崎潤一郎(当時26歳)は、東京日日新聞(現・毎日新聞)の依嘱で約3カ月間、関西方面へ取材旅行に出かける。さっそく原稿は「朱雀日記」の題で、時をおかず東京日日・大阪毎日新聞に連載が開始される。後年、回想風に書き下ろされた「青春物語」から、その関西旅行(大阪初体験)の部分を抜粋してみる。
<<それから數日の後、私は始めて大阪へ出かけた。岸本さん(注1)の指定された宿と云ふのは、名前は忘れてしまつたが南區笠屋町の路次の奥にあつて、今から考へてみるのに、どうも松竹の白井さんの住宅のあるあたり、あの邊に違ひないのだが、太左衛門橋や戎橋に近い島の内の最も粋な所にあつて、旅館で待合を兼ねたやうな木屋町式の家であつた。なんでも幹彦君(注2)は都合があつて一日後から來ることになり、私ひとり梅田からその教へられた宿へ行つてみると、すぐ文樂座の方へ來てくれと云ふので、其處(そこ)から又あの御霊さんの中にあつた元の文樂座へ俥(くるま)を飛ばした。桟敷には、一と足先に來てゐたお多佳さん(注3)、それから初對面の大阪の紳士が二三人ゐて、人形芝居の説明をしてくれた。云ふまでもなく攝津や越路や團平(注4)などの生きてゐた時代であるから、私はさう云ふ名人の藝を聽いたに違ひないのだけれども、何を云ふにも此の上方の郷土藝術に反感を持つてゐた頃でもあり、浄瑠璃などには何の興味も同情も感じなかつた生意気盛りの時であるから、仕方がなしに退屈をこらへてゐたゞけで、出し物が何であつたかも覺えてゐないし、斷片的な舞臺の印象さへも残つてゐない。
それよりも私は、その晩圖(はか)らずも笠屋町の宿でお多佳さんと唯二人枕を並べて泊ることになり、これには甚だ窮屈な思ひをしたことだつた。(略)>>
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明治17年(1884年)、船場御堂筋の灘波神社北門境内で二代目豐澤團平を擁する彦六座が開場し人気を集める。明治5年に灘波神社(博労町の稲荷)境内から九条松島新地に移って「文楽座」を旗揚げしていた三世植村文楽翁(二世までは正井姓)は、張り合うように灘波神社の近くに鎮座する御霊神社境内に舞い戻る。杮(こけら)落しは同17年9月(文楽翁は明治22年2月75歳で死去)。その後、明治31年に彦六座の團平は舞台上で急死し、まもなく人材を育てられなかった植村家文楽座も経営不振に陥り、明治42年に松竹に身売りする。大正15年11月、御霊文楽座は失火(?)により全焼、その際に御霊神社本殿も類焼する。本殿の再建は昭和5年と記録されている。結局、松竹傘下に入った「文楽座」のみが生き残り、人形浄瑠璃=文楽の名称が通用するようになる。谷崎は松竹傘下3年目の「文楽座」を訪れたことになる。
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(御霊神社正面鳥居の脇に文楽座跡の記念碑が設けられている。正面は東向き。)

注1 岸本さん・・岸本吉左衛門。大阪船場の岸本商店の若旦那(お決りの金持ち=美術品コレクター)。谷崎は岸本を21、2歳と書いている。祇園「大友」の常連? 昭和10年に岸本商店は法人化し(株)大阪銑鉄商会と改称。増資を重ね大銑産業(株)として現存。
注2 幹彦君・・作家長田幹彦。谷崎と親交するが後年絶縁。谷崎の一つ年下。詩人吉井勇と並び「祇園もの」をものした。吉井との共著もある。
注3 お多佳さん・・磯田多佳(元芸妓)。祇園新橋の茶屋「大友(だいとも)」を母ともから若くして継ぎ女将に。夏目漱石との交流は特筆される。戦時中の建物強制疎開で茶屋は取り壊され、跡地に吉井勇の歌碑が建つ。若い谷崎との襖を開け放った一夜はこれも特筆もの。どうなったか、その先は略してしまった。
注4 攝津や越路や團平・・人形浄瑠璃の大掾(だいじょう)・太夫の名。
*(注)とルビは原文には無し。
*「青春物語」昭和7年9月号〜昭和8年3月号中央公論初出。「谷崎潤一郎全集第13巻」中央公論社1982年刊より抜粋。
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(左写真 千日前通・日本橋の国立文楽劇場1階の展示室)

参考 「文楽ハンドブック」三省堂2011年刊 (主にp13〜14)
   「別冊太陽」(雑誌)文楽特集1992年
    大阪日本橋・国立文楽劇場展示室資料
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posted by y.s at 08:08| Comment(0) | 大阪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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