「盲目物語」昭和6年9月中央公論初出・「谷崎潤一郎全集第13巻」中央公論社1982年刊より抜粋。
<<太閤でんかはあのお方の父御をほろぼし、母御をころし、御兄弟をさへ串ざしになされたおん身をもつて、いつしかあのお方をわがものにあそばされ、親より子にわたる二代の戀(こい)を、をだにのむかしから胸にひそめていらしつたおもひを、とうとうお遂げなされました。>>

(4歳で両眼をうしなった男の脳裏にほのぼのと残る近江の湖の水の色・・をだに=小谷城の山腹から望む琵琶湖)
<<さういへばお茶々どのは、あのときはあれほど太閤でんかをおうらみあそばされ、「おやのかたき」とまでおつしゃっていらつしゃいましたのに、まもなくそのかたきにおん身をおまかせなされ、淀のおしろに住まはれるやうになりましたが、わたくしは北の庄のおしろ(注3)が落ちました日から、いづれさうなるだらうとおもつてゐたことでござりました。あのみぎり、ひでよし公はお市どのをうばひそこねてたいそう御氣色(みけしき)をそんぜられたさうでござりますけれども、わたくしが御前へ出ましたときは、案に相違いたしましてすこしもそのやうな御様子がなかつたばかりか、かへつてあり難いおことばさへいたゞきましたのは、お茶々どのを御らんなされましてきふにおぼしめしがかはつたのでござります。>>
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<<わたくしも、あの久坂の御陣(注2)のときまで御奉公をいたしてをりましたら、お役にはたちませぬまでも、をだにのおしろ(注1)でおふくろさまをおなぐさめ申しましたやうに何やかやと御きげんをとりむすび・・・(略)・・・おくがたのおこゑがいまでも耳にのこつてゐるがと御つしやいますか。それはもう申すまでもないこと。何かの折におつしやいましたおことばのふしべ(=ふしぶし)、またはお琴をあそばしながらおうたひなされました唱歌のおこゑなど、はれやかなうちにもえんなるうるほひをお持ちなされて、うぐひすの甲(かん)だかい張りのあるねいろと、鳩のほろほろと啼くふくみごゑとを一つにしたやうなたへなるおんせいでいらつしやいましたが、お茶々どのもそれにそつくりのおこゑをなされ、おそばのものがいつもきゝちがへくらゐでござりました。さればわたくしには太閤殿下がどんなに淀のおん方を御ちようあいあそばされましたかよくわかるのでござります。>>
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<<あゝ、わたくしも、あれほどのおかたの御心中を知つてゐたかとおもへば、かたじけなくも右大臣ひでより公のおん母君、淀のおんかたをこの背中へおのせ申したことがあるかとおもへば、なんの、この世にみれんがござりませう。>>
注1 をだにのおしろ・・・北近江・浅井氏代々の山城小谷城。茶々の実父浅井長政は、信長に攻められ自刃し滅亡。その頸は、翌天正2年正月の岐阜の館での祝賀の宴で、どくろ盃として披露された。
注2 久坂の御陣・・・青井山にあった山城附近での陣張か?
注3 北の庄のおしろ・・・織田家重臣柴田勝家の居城。現・福井市。福井駅近くに史跡あり。湖北の賤ヶ岳(しずがたけ)で秀吉に敗れた勝家は、退却の末、正室お市の方ともども本丸で自害し滅亡。茶々ら三姉妹は救出された。
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