<<私のうちには、琴、三味線を弾くものは一人もいない、しかるに、昭和十二年の初夏から去年の十二月下旬まで、朱色の袋に入れた山田流の琴が一面あつた。その附属品として、琴爪を入れた桐の小箱もあつた。この琴は、太宰治君の先の細君が(初代さんといふ名前だが)太宰君から離別された直後、いろんな家財道具と共に私のうちに預けておいたものである。当時、初代さんは青森県の浅虫の生家へ引きとつてもらふ話をつける間、私のうちへ一箇月あまり泊つて待機してゐた。離別された事情が事情(注1)だから、初代さんは生家へ引きとつてもらへないかもしれぬといふ不安があつて、はたの見る目もあはれなほど途方に暮れてゐた。茶の間の濡縁(ぬれえん)に私の家内(注2)と並んで腰をかけ、涙をぽたぽたこぼしてゐるのを見たことがある。
太宰君は初代さんに離別を云ひ渡したとき、家財道具いつさい初代さんに遣つてしまつた。理由は、初代の不快な記憶のつきまとふがらくたは見るのもいやだからといふのであつた。そこで太宰君自身はどうかといふに、自分の夜具と机と電気スタンドと洗面道具だけ持つて、私のうちの近くの下宿(注3)に移つて来た。着のみ着のままであつた。>>

初代が身を寄せた当時の井伏家(昭和2年9月竣工)は、昭和34年4月の建替工事を前にして
取り壊された。写真は昭和34年7月に完成した井伏家。
昭和2年当時の住居表示は、豊多摩郡井荻村下井草1810。
その後、杉並区清水町24番と変更になり、現在は清水1-17-1。
<<太宰君は初代さんが私のうちにゐる間にも、たびたび私のうちへ将棋を指しに来た。そのつど初代さんは茶の間か台所にかくれたが、書斎と居間を兼ねた私の部屋は台所と壁一重である。わたしのうちは建坪が少くて、茶の間から便所へ行くには私の居間につづく廊下を通らなければならないので、初代さんは便所へ行きたくても我慢しなければならないことになる。だから私は将棋は一番だけにして太宰を誘つて外出する。外出してから一緒に飲むやうなことがあると、太宰の上機嫌になつてゐるところを見はからつて、どうだ君、初代さんとよりを戻す気はないかと云ふ、すると太宰は、居直つたかのように、きつとして、その話だけは絶対にお断りしたいと、きつぱりした口をきく。そんなことが二度か三度かあつたと思ふ。そのくせ彼は、別れた女房が万一にも短期を起しはせぬかと、はらはらしてゐるやうなところがあつた。>>

注1 不倫。相手は太宰の親類(義弟)で当時、帝国美術学校西洋画科(武蔵野美術大の前身)の
学生だった小舘善四郎(こだてぜんしろう)。太宰が薬物治療で東京武蔵野病院に入院中に
小舘と姦通。昭和12年3月上旬、小舘は友人と太宰夫妻が住む碧雲荘(地図参照)を訪れた際、
二階(?)の便所で横に並んだ太宰に前年の初代との事を喋ってしまう。太宰は初代を厳しく詰問。
初代は過失を告白せざるをえなくなる。太宰と初代は、直後(3月20日頃)に水上村谷川温泉の
山間で薬物による心中未遂事件を起こす。
注2 井伏鱒二の妻節代。昭和2年9月下旬に新居(現在地と同じ場所)が完成した直後の10月に結婚。
注3 昭和12年6月21日、太宰は碧雲荘から同じ町内(天沼1丁目213番)の下宿鎌滝富方の
二階(四畳半)に単身で移転する。

「琴の記」昭和35年3月週刊朝日別冊初出 「井伏鱒二自選全集第9巻」新潮社1986年刊より
参考 「井伏鱒二全集別巻2」筑摩書房2000年刊収録の年譜他
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