現在、その住居の周りには、三越・メルサ・松坂屋・ロフトが建ち並び、住居表示も南伊勢町から栄(さかえ)と変わっている。伊勢町通りに面した家(通りの西側)からの乱歩の通学路を想定して、夢想しながら歩くこともできそうだ。
江戸川乱歩「私の履歴書」日経新聞昭和31年5月(5回連載)から抜粋。
<<小学校は名古屋市南伊勢町の白川尋常小学校、その近くの市立第三高等小学校、中学は愛知県立第五中学校(後に熱田中学と改称)の第1回卒業生である>>
(小白川尋常小学校が存在した寺町一帯は、空襲で焼土と化した。戦後、米軍住宅用キャンプとして土地接収を受けたが、昭和33年の返還後、名古屋市により白川公園として整備され、現在、広い公園の一角には市立の科学館・美術館などが設けられ、市民の憩いの場となっている。)
<<二、三歳のころは、ひどくおしゃべりで、物真似などが上手だったそうだが、物心つくにしたがって、あまりしゃべらなくなり、独りで何か空想して、夕方など町を歩きながら、声に出してその空想を独白するくせがあった。会話を好まず、独りで物を考える、よくいえば思索癖、悪くいえば妄想癖が幼年時代からあり、大人になっても、それがなおらなかった。
お婆さん子の、甘えっ子の、内弁慶だから、小学校に入って、はじめて社会に接したときには、校庭の隅っこの桜の木の下にポツンと立って、みんなの駆け回るのをボンヤリ眺めているようないくじなしであった。しかし物の理解力はあるほうで、当時の尋常小学校四年(注1)を通じて、いつも級長か副級長であった。>>
(跡碑の横の桜の木の傍らにポツンと立っている丸眼鏡の乱歩少年像・・・は無い)
(白川小学校碑文から ソモソモ白川小学校ハ、明治五年白川町ノ西光院(注2)ニ白川小学校、前身トシテ第十三義校ガ此ノ地ニ開校サレタリ、ソノ後本校ガ明治十八年二落成サレシガ、明治二十年教育令改正ニヨリ尋常小学白川学校トナリ、ツイデ明治二十六年白川尋常小学校ト改正サレタリ、ソノ後大正二年ニ当地ヨリ、二百米北方ノ横三蔵町ノ地ニ新校舎ガ・・・以下略 昭和54年9月昭和3年卒業生有志一同建立)
(乱歩が通っていた明治34〜38年当時の白川尋常小学校は、未だ横三蔵町に移転する前で、寺町の一角に校舎があった。美術館の裏側附近辺り。)
注1 尋常小学校は4年制、高等小学校は2年制であった。
注2 西光院は、織田信長の入城以前の大永年間、清洲城城内で創建され、関ケ原戦まもない慶長9年に石切町(=白川町)に転寺。戦時中の昭和18年に再び転寺した。
参考 平井隆太郎「乱歩の軌跡 父の貼雑帖から」東京創元社2008年刊
西光院ホームページ・名古屋市中区史1991年刊 他
江戸川乱歩リンク
谷中 煉瓦塀の荒屋(あばらや) 江戸川乱歩「妖虫」からhttp://zassha.seesaa.net/article/381026359.html
麻布竜土町 明智探偵事務所をさがしてhttp://zassha.seesaa.net/article/381667672.html
上野 上野動物園 江戸川乱歩「目羅博士」より http://zassha.seesaa.net/article/447350572.html
大阪守口 天井裏への誘い 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」より http://zassha.seesaa.net/article/294747121.html?1494000764
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