<<半年位で今度は山科(やましな)に引越しました。醍醐の山など見渡せるいい所で、人の別荘でした。縁側の下まで池がずっと入つてゐて、大きな鯉が沢山居て、仲々よかつたです。しかし子供が三人あつたのに、そこに直吉が生れる時で、一寸(ちよつと)産室もとれないやうな家だつたので、一年半ゐて、今度は奈良に移りました。奈良では四年間、借家をしてから高畑(*奈良市内、徒歩圏内)に家を建てました。>>志賀直哉「転居二十三回」(初出1958年7月)より(「志賀直哉全集第10巻」1999年岩波書店刊収録)。
志賀直哉の奈良における最初の住居(現在は奈良市紀寺町)。
幸町の借家には、菊池寛(小説家、文芸春秋創始者、芥川・直木賞創設者)が子分!?直木三十五を連れて訪れている。「志賀直哉交友録」1998年講談社学芸文庫収録の「菊池寛の印象」より抜粋。
<<菊池寛(きくちかん)君とは二十二三年の間に五六度会っている。それも二人だけで話した場合は一度もなかった。昭和一二(いちに)年の頃、奈良幸町の寓居に直木三十五(なおきみそご)等を連れ、訪ねてくれたのが最初で、それから十年程会う機会がなく、谷崎鮎子さんの結婚披露で会ったのが二度目だった。(略)>>
東より西向きに撮影。突き当りは超願寺(紀寺地蔵町)。
移転直後の大正14年5月26日、移転理由となっていた次男直吉が生まれる。
翌大正15年(昭和元年)11月、休載中の「暗夜行路」続篇(のちの後篇第四の一〜三)を発表(「改造」誌)、さらに昭和2年にかけて「暗夜行路」続篇(のちの後篇第四の四〜十三)を書きつぐ。昭和4年2月16日、確執のあった実父直温が76歳で没する(麻布三河台の邸宅=六本木にて)。同年4月、新築完成した奈良市上高畑の家に移る。
参考:「志賀直哉全集第22巻」(年譜)2001年岩波書店刊
志賀直哉リンク
京都山科 志賀直哉邸跡 「山科の記憶」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447362573.html
茗荷谷 切支丹坂 志賀直哉「自転車」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447574437.html
京都円山 左阿弥 志賀直哉「暗夜行路」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/422883782.html
姫路 お菊神社 志賀直哉「暗夜行路」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/453968932.html