2017年02月25日

鎌倉 旅館 対僊閣 つげ義春「貧困旅行記」より

かって月刊漫画誌「ガロ」(出版は神田神保町の青林堂)を通じて熱狂的(教祖的か)な読者を獲得していた漫画家つげ義春(本名 柘植義春つげよしはる)の旅エッセイ「貧困旅行記」から、明治末の創業から現在に至るまで鎌倉の長谷観音の参道で営業を続ける旅館「対僊閣」(たいせんかく)を取り上げる。
1986年(昭和61年)6月、つげ義春が家族を連れて鎌倉の寺巡り(長谷寺・大仏・建長寺)をした際、たまたま一泊した旅館が「対僊閣」であった。
<<いつの間にかまた長谷寺参道の入口に戻っていた。古めかしい木造の対僊閣(たいせんかく)という宿屋に投宿した。先ほど目にとまっていたのだが、見ためはちょっと物足らなく思え、ためらっていた。しかし夕暮れて正助は疲れた様子なので、夕食なしの朝食のみという味気ないのもやむを得ず泊ることにした。鎌倉の宿屋は、女性専門が多いだけでなく、夕食ぬきも多いようだ。
京都へ行ったときもその例で、古都の人は晩めしを食わないのだろうか。
対僊閣はなかなか感じの良い宿だった。明治の建築とかで、玄関には私の丈より大きな柱時計が据えられ、電話室も昔のままで珍しく見た。二階の通された部屋は、古びてはいても十二畳と広くさっぱりとして、浜風が吹き抜け心地好い。初老のおかみさん(女中さんか?)も物静かでひかえめで感じが好い。私は掘出し物をしたようで嬉しくなった。宿の向いには、うなぎ屋、その隣りに骨董屋、二、三軒おいて食堂もあり、夕食なしでも不自由はしない。私たちの他に客はなく、モダン好みの女性客にはうけそうにない宿だが、それがかえって穴場かもしれないと思った。>>
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(写真)参道に面した旅館対僊閣の北側正面。明治末年の創業だが、この建物は1927年(昭和2年)の築造。意匠・施工は三橋幾造。二階の四つの欄間窓が印象的。つげ義春は、「見ためが物足らない」とスルーしようとした。つげの宿泊から30年経った今でも、まあまあかなと思うのだが。撮影は2008年。
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(写真)「私の丈より大きな柱時計が据えられ」ている正面玄関。右手の階段から2階の客室に案内されたのだろう。
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(写真)玄関右手の案内板。これだけみると、やはり若い女性客は後ずさりするだろう。

<<十時半ごろ妻と正助は眠った。私は明日愉しみがあるのでわくわくして眠れない。宿屋の向いの骨董屋で、先ほどみつけた仏像を、明日買おうかどうしようか迷い、あれこれ考え目が冴えていた。
以前から仏像は一つ欲しいと思っていたが、時どき古物市に物色に出かけたりしてみても、手頃なものに出会えなかった。鎌倉には骨董屋が多く、寺も多いので期待をして、先日古本を処分した金を用意してきていた。
向いの店で見たのは三十センチほどの千手観音だった。鋼製のずっしり重いものだが、私は木像より金属仏を好んでいる。千手といっても左右合わせて十八本に省略され、それぞれの手の持ち物も欠落なくちゃんと揃っている。ほんとうはこのようにゴテゴテしたものより、もう少し小型のすっきりした阿弥陀仏など欲しいのだが、値段を考えると選り好みはできない。むろん骨董価値のあるものなど無理な話で、店主も「明治期のものですヨ」と正直に云った。私は仏像を買う目的は、信仰心が薄いので、真似ごとでもいいから、朝夕合掌でもしてみたいという気持ちからで、骨董品でなくてもよいのだった。>>
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(写真)千手観音を買おうか迷って目が冴えて眠れなくなった要因となった旅館向い骨董店。翌日、つげ氏は購入している。「貧困旅行記」にその観音様の写真が掲載されている。
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(見取り図)「宿の向いには、うなぎ屋、その隣りに骨董屋、二、三軒おいて食堂もあり、夕食なしでも不自由はしない」と書かれた3軒に●を印した。尚、紅家美術店は、昭和30年代には長谷寺山門の傍らに店舗を構えていた(地図参照)。

参考 つげ義春「貧困旅行記」1991年9月晶文社刊。抜萃は新潮文庫1995年版から。 
posted by t.z at 06:36| Comment(0) | 鎌倉kamakura | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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