乱歩氏38歳、東京市外戸塚町で経営する旅館緑舘の2階西側6畳間で髪振り乱して大忙しである。
このころ、振り乱すほど髪は生えていなかったか。
乱歩氏の6畳間は、客室とは独立しており、旅館玄関とは別に出入口が設(しつら)えてあった。この専用玄関に昼夜を問わず原稿催促の編集人が押しかけており、「目羅博士」のプロローグに、その催促からの逃避の心情が書かれている。書斎兼居室の西側窓は目隠しで覆っており、執筆に集中していたようだ。執筆当時、旅館緑舘は営業中で、閉鎖するのは、9ケ月後の11月であった。
雑誌「文藝倶楽部」増刊号初出のタイトルは「目羅博士の不思議な犯罪」、その後、数度にわたり改題されている。
眼科の医師「目羅博士」はまだ登場しない、謎の連続首吊り自殺もまだ起こっていない、冒頭の薄暗くなった上野動物園サル檻前の不気味なシーンから・・・
<<ところで、お話は、やっぱりその、原稿の催促がきびしくて家にいたたまらず、一週間ばかり東京市内をぶらついていたとき、ある日、上野の動物園で、ふと妙な人物に出合ったことからはじまるのだ。
もう夕方で、閉館時間が迫ってきて、見物たちはたいてい帰ってしまい、館内はひっそりかんと静まり返っていた。芝居や寄席なぞでもそうだが、最後の幕はろくろく見もしないで、下足場の混雑ばかり気にしている江戸っ子気質はどうも私の気風に合わぬ。動物園でもその通りだ。東京の人は、なぜか帰りいそぎをする。まだ門がしまったわけでもないのに場内はガランとして、人けもない有様だ。>>
<<私はサルの檻の前に、ぼんやりたたずんで、つい今しがたまで雑沓していた、園内の異様な静けさを楽しんでいた。サルどもも、からかってくれる相手がなくなったためか、ひっそりと淋しそうにしている。
あたりがあまりに静かだったので、しばらくして、ふと、うしろに人のけはいを感じた時には、何かしらゾツとしたほどだ。
それは髪を長く伸ばした、青白い顔の青年で、折目のつかぬ服を着た、いわゆる「ルンペン」という感じの人物であったが、顔付のわりには快活に、檻の中のサルにからかったりしはじめた。
よく動物園にくるものとみえて、サルをからかうのが手に入ったものだ。餌を一つやるにも、思う存分芸当をやらせて、さんざん楽しんでから、やっと投げ与えるというふうで、非常に面白いものだから、私はニヤニヤ笑いながら、いつまでもそれを見物していた。
「サルってやつは、どうして、相手のまねをしたがるのでしょうね」
男が、ふと私に話しかけた。
(略)>>
「目羅博士」江戸川乱歩全集第8巻1979年講談社刊より抜粋。
参考 「貼雑(はりまぜ)年譜 江戸川乱歩推理文庫特別補巻」1989年刊
江戸川乱歩リンク
谷中 煉瓦塀の荒屋(あばらや) 江戸川乱歩「妖虫」からhttp://zassha.seesaa.net/article/381026359.html
麻布竜土町 明智探偵事務所をさがしてhttp://zassha.seesaa.net/article/381667672.html
名古屋・栄 白川尋常小学校跡 江戸川乱歩 「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443495724.html
大阪守口 天井裏への誘い 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」より http://zassha.seesaa.net/article/294747121.html?1494000764
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