<<京都の粟田口の西郷従道(*隆盛の弟)さんの子供の豊次といふ人の家を借りて住みました。いい家だつたが、出場のいい所で、客が來て少しも落ち着けない。>>という理由で、<<半年位で今度は山科に引越しました。醍醐の山など見渡せるいい所で、人の別荘でした。縁側の下まで池がずつと入つてゐて、大きな鯉が沢山居て、仲々よかつたのです。>>「志賀直哉全集第10巻」岩波書店から。
山科(山科村大字竹鼻小字立原26番地)に移ってきたのは、年も改まらない10月のことで、志賀は、この地で、山科川のせせらぎを聴きながら、「転生」、「冬の往来」、「黒犬」、「弟の帰京」、そして「山科の記憶」等の諸作品を書く。
以下、短編「山科の記憶」から抜萃。
<<山科川の小さい流れについて來ると、月は高く、寒い風が刈田を渡つて吹いた。彼は自動車の中でつけて來た巻煙草を吸ひ了(をは)つて捨てた。自家(うち)まで乗りつける事が気兼ねで大津への街道で降り、女はそのまま還(かへ)した。彼は歩きながら、今別れて來た女の事ばかり考へてゐた。愛する女の事を別れて考へるのは快楽だ。二重の快楽だが、家が近づき、妻に偽りを云はねばならぬといふ予想が起ると、それが暗い当惑となつて彼におほひ被さつて來た。流れの彼方(むかう)に一軒建つてゐる自家の灯(あかり)を見ると、彼はいつも此の当惑を覚えた。明かに自分が弱者の位置に立つ事が腹立たしくもあつた。>>

(写真)山科川に架かる「細い土橋」。左手が上流。三条通で女と別れ、主人公は、この細い橋の
袂まで歩いてくる。橋を渡った目の前が、これから偽りを云うであろう妻が待つ自宅だ。

(写真)左手に山科川が流れ、奥に渡った「細い土橋」が見える。右手の建物がある一帯が主人公の
家だ。そこが実際に志賀直哉が住んだ、大きな池が縁側下まで入りこむ、「山科の家」であった。
写真左手の川淵に文学碑が建立されているが、近年のものには興味がわかない。
<<彼は妻を愛した。他の女を愛し始めても、妻に対する愛情は変らなかつた。然し妻以外の女を愛するといふ事は彼では甚だ稀有な事であつた。そしてこの稀有だといふ事が強い魅力となつて、彼を惹きつけた。その事が自身の停滞した生活気分に何か潑剌(はつらつ)とした生気を与へて呉れるだらうといふやうな事が思はれるのだ。功利的な考ではあるが、一途(いちづ)に悪くは解されない気がした。
彼は細い土橋を渡つて、門を入つた。門の戸に鈴が附いてゐる。その昔にも、自分の怯(ひ)けた心が現れる事を恐れた。彼は出來るだけ無心に開け、無心に閉めた。
然し何がこんなに自分の心持を暗くするのだらう。自分を信じてゐる妻を欺いてゐる事が氣になるからだ。中の灯を一杯に映した玄関の硝子戸を開けた。(略)>>
「山科の記憶」は1926年(大正15年)1月「改造」に初出。
*ふり仮名は原文には無いものもあり。

(見取り図)旧三条通(旧東海道)で下車した位置を特定しにくい。山科川の手前付近で女の乗る車を見送り、あとは山科川に沿う側道を、別れたばかりの女と妻のことに気を回らしながら南下する。「細い土橋」と橋の先に自家が見えてくる。
志賀直哉リンク
茗荷谷 切支丹坂 志賀直哉「自転車」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447574437.html
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