(略)
家康は江戸城を三男の秀忠にまかせ駿府で表向きの隠居生活を送っていた。
武蔵野の黒い土や冷たい風よりも温暖な駿府のはうが体に心地良かったからだが、長年の戦いで鍛えた小肥りの体はまだ時折、江戸の近郊で鷹狩を楽しむことができた。鷹狩は口実だった。家康はまだ秀忠を頼りなく思っていたのである。家康は晩年に至るまで、「後家好きの襤褸(ぼろ)買い」だったと言われている。彼の正室、築山殿は今川義元の養女で立派な家系を持っていたが、家康の妻妾になった他の女性はほとんど身分の低い武士や家臣の娘だった。阿茶(あちゃ)の局は遠州金谷の鍛冶の女房であり、阿亀(おかめ)の方は石清水八幡の修験者の女(むすめ)である。駿府に移ってからも家康はさまざまな女に手をつけた。侍女のなかにも気に入った者があるとすぐ枕頭に侍(はべ)らせた。>>
(写真)駿府城址。徳川家康の隠居城として普請(拡充修築工事)された城で、「慶長12年7月3日に神祖(家康)御移徒」と幕末慶応年間の駿府城下地図に墨書されている。また本丸入城間もない同年12月12日に炎上、翌慶長13年3月11日に再営成ると普請経過も添えられている。また家康は上方大名の人質を駿府に集めて監視下に置く処置をとっている。
<<家康は気に入った女がいると近習に命じて寝所に呼ばせた。
ある日、鷹狩と称して江戸から駿府に戻った彼は突然、近習二、三人をつれて庭の築山を歩いた。そして庭で恐縮して身をかがめている稗(ひ)たちの横を通りすぎた時、彼はそのなかに小石のように小さく色の白い女を見た。家康は近習の笠原主膳に老女を通してあの女を侍女に取りたてろと命じた。
主膳は平伏して答えた。
「あの女は鮮人の娘でどざいますゆえ・・・」
すると家康はそうかと言っただけで、もはやその娘のことは忘れたように口に出さなかった。>>
(写真)駿府城天守台跡西側付近の土塁状の一帯。本丸を取り巻く二の丸の一部か。清水門北側付近。
<<主膳は駿府に戻ると、手をまわしてユリアをここで働かせることにした。ただ彼女が切支丹であることは、自分も亦(また)、信徒であると同じように、かくさねばならぬ秘密だった。
ユリアが駿府に来た時、家康はまだきびしい切支丹追放令は出していなかったが、それを城内で公にすることはできなかったのである。家康からユリアを侍女にとりたてるように命ぜられた時、主膳はうまく事を処理することができた。侍女となることは、やがては家康の夜伽(よとぎ)をするということである。切支丹を信ずる女にとっては夫ときめた男以外に身を委すことは許されぬ。主膳はそれ故にユリアの身をかばったのだが、しかし主人の一言は彼の心をふかく傷つけた。
(略)
十月九日、明後日が出陣の日(*慶長19年大坂冬の陣)、老女に連れ出されたユリアは庭の砂の上に平伏していた。そのうしろに老女と二人の侍女が休を固くして身をかがめている。本多正純と出陣の打合わせをするため家康は近習一人をつれて廊下に姿をあらわした。彼は平伏しているユリアを見て、自分が何げなく言った言葉を思いだし、笑いながらその顔をあげさせた。この女の白い小さな、そして表情のない顔は老人の肉欲をいたく刺激した。彼が今日まで夜伽を命じた数多くの日本人の女たちとは違った顔だちである。
「参るか、京に」
と老人はやさしい声で訊ねた。ユリアは手をつき顔をあげたまま、家康を見あげ、首をふった。何故じゃと家康が更に問うと、うつむいて小さな声で答えた。
「デウスさまが、そのようなことを、お禁じになります故。わたくし切支丹にござりまする」
家康は黙ったまま、廊下を去っていった。彼の顔には相変らず機嫌よさそうな笑いが漂い、平伏している正純にねぎらいの言葉をかけながら姿を消したが、庭に残った人々は茫然自失して、しばし、そこに頭を下げたきりだった。近くこの天下を凡(すべ)て握る権力者に一人の稗(はしため)が公然と反抗するなど、想像もできぬ出来事だったからである。>>
(写真)駿府城本丸跡に建つ家康像。
<<大島に流されたユリアは仮小屋で孤独な祈りの生活を送っていた。一カ月ほどたった時、一隻の舟がユリアに大御所からの命令を伝えてきた。もし切支丹の教えを棄て大坂に来るならば、今日までの罪は許すというのである。それを聞くとユリアは、無表情な顔をただ横にふっただけである。
そのため彼女は、大島から十五里、南にある新島に送られた。この島でもユリアはただデウスだけに語りつづけながら日を送った。頭に加茂の河原で切られた小西行長や、火あぶりの刑に処せられて煙のなかで棄教を叫んだ主膳の姿が浮ぶ時、ユリアは彼等のためにも祈った。
新島にまた、家康からの命令が伝えられた。その命令はこの前のものと同じである。ユリアの返事に変りないので、彼女は、新島から八里離れた神津島に移されることとなった。
島には七、八人の漁師が住むのみである。藁(わら)小屋に起伏したユリアは漁師のくれる魚でわずかに飢えをしのいだ。そしてある日、魚を持っていった一人の漁師が藁小屋の中を覗くと、ユリアは壁に靠(もた)れ、祈るように手を組んだまま死んでいた。漁師は彼女の顔がひどく浄らかで美しいと思った。>>
「ユリアとよぶ女」1968年2月号「文藝春秋」誌初出。
「遠藤周作文学全集7 短編小説」新潮社1999年刊より抜粋。
*実在の「ユリア(ジュリア)おたあ」の、その後の消息に関しては、唯一、イエズス会日本管区長Fパチェコ師Francisco Pachecoのイエズス会宛ての書簡(ローマに保管か?)に残されているのみ(大坂で庇護)。「ユリアとよぶ女」は、戦国時代を信仰に支えられて生き抜いた一人の女性クリスチャン(生没年、没地不明)を描いたロマン(小説)として読めば、その結末に何ら問題はない。
遠藤周作リンク
府中 遠藤周作の墓 瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/239444707.html?1486614633
長崎・平戸周辺 遠藤周作「沈黙」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447360739.html
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