志賀直哉68歳時の執筆になる少年時代の回想物語「自転車」から。、
<<私は十三の時から五六年の間、殆ど自転車気違ひといつてもいい程によく自転車を乗廻はしてゐた。学校の往復は素(もと)より、友達を訪ねるにも、買物に行くにも、いつも自転車に乗つて行かない事はなかつた。当時は自動車の発明以前であつたし、電車も東京には未だない時代だつた。乗物としては芝の汐止から上野浅草へ行く鉄道馬車と、九段下から両国まで行く円太郎馬車位のもので、一番使はれてゐたのは矢張り人力車だつた。箱馬車幌馬車は官吏か金持の乗物で、普通の人には乗れなかつた。尤(もっと)も、囚人を運ぶ馬車はあつて、私達はそれを泥棒馬車と云つてゐたやうに記憶する。
その頃、日本ではまだ自転車製造が出来ず、主に米国から輸入し、それに英国製のものが幾らかあつた。英国製は親切に出来てゐて、堅実ではあつたが、野暮臭く、それよりも泥除け、歯止めなどのない米国製のものが値も廉(やす)かつたし、私達には喜ばれた。
(略)
恐しかつたのは小石川の切支丹(きりしたん)坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあつて、この名があるといふ事は後に知つたが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ヶ(*むずか)しくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも両側の屋敷の大木が欝蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛込む心配のある事だつた。>>
(写真)切支丹坂の位置には別説もあるが、この坂が切支丹坂と認定され、地図に記載されている。
現在、坂下は地下鉄線路を潜る隧道となり、旧小石川区役所側(竹早町電停)へ抜けられる。
<<私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途(かへり)、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心を余程うまくとつてゐないと車を倒して了(しま)ふ。坂の登りロと降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。
然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた。
私の自転車はデイトンといふ蝦茶(えびちゃ)がかつた赤い塗りのもので、中等科(*学習院)に進んだ時、祖父に強請(せが)んで買つて貰つた。普通の大人用のもので、最初の頃はペダルに足が届かず、足駄の歯のやうな鉄板を捩子(ねぢ)でペダルに取りつけ、漸(ようや)く足を届かす事が出来た。私はそれで江の島千葉などへ日帰りの遠乗りをした。>>
(写真)切支丹坂の中途付近から坂上を見上げる。
(切支丹坂周辺見取り図)江戸初期の切支丹屋敷跡(大目付井上家下屋敷)に隣接する坂のために切支丹坂と呼称されたのだろう。昭和初期の地図と比べても道路はかなり変化している。
「自転車」新潮 昭和26年11月初出、「志賀直哉集」筑摩現代文学大系1976年刊より抜粋。
志賀直哉リンク
京都 山科 志賀直哉邸跡 「山科の記憶」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447362573.html
【関連する記事】
- 日本橋小網町 西郷隆盛の屋敷跡
- 築地 海幸橋 池波正太郎「東京の情景」より
- 三田 人力飛行機舎跡 寺山修司少女詩集から
- 江戸橋 江戸橋地下道 東野圭吾「麒麟の翼」事件現場
- 浅草 浅草神社三社祭町内神輿(44ヶ町)連合渡御
- 上野・谷中墓地 上田敏の墓 菊池寛「上田敏先生の事」より
- 御茶ノ水 開化アパート2階の明智事務所 江戸川乱歩「黄金仮面」より
- 浅草木馬館 回転木馬の心酔者江戸川乱歩と萩原朔太郎 「探偵小説十年」より
- 両国 斎藤緑雨の終焉地 「清張日記」より
- 霞が関 経済産業省特許庁 夏目漱石「断片」より
- 御茶ノ水 聖橋の凹んだ欄干 武田百合子「遊覧日記」より
- 上野 上野動物園 江戸川乱歩「目羅博士」より
- 神田南神保町 谷崎潤一郎の文壇デビュー 「青春物語」より
- 神田神保町 三省堂書店本店 西村賢太「下手に居丈高」より
- 五反田 桐ケ谷駅空襲 大佛次郎「敗戦日記」より
- 浅草 関東大震災と富士小学校 川端康成「空に動く灯」より
- 千駄木 森鴎外邸前の幽霊下宿 佐藤春夫「天下泰平三人学生」より
- 銀座 有賀写真館 詩人中原中也のあのポートレイト
- 上野不忍池 聖天宮のフェリシズム石像 高見順「都に夜のある如く」から
- 外神田 神田明神 アニメ「ラブライブ!」の聖地(穂乃果の実家の和菓子屋「穂むら」..