2017年03月04日

茗荷谷 切支丹坂 志賀直哉「自転車」より

「十三の時から五、六年の間、殆ど自転車気違い」と「自転車」の冒頭に書かれているが、志賀直哉が本格的に東京市内を乗り廻したのは、学習院中等科3年(14歳)の6月に麻布三河台(現六本木4丁目)に一家とともに移転してからだろう。それ以前は、芝公園の増上寺の元学寮だった家から初等科に通い、さらにそこから中等科(12歳)に進んでいる。自転車で遊び呆けていたせいか、落第を一度ならず繰り返し、中等科6年をやっと卒業できたのは19歳をむかえて半年がたった明治35年7月であった。
志賀直哉68歳時の執筆になる少年時代の回想物語「自転車」から。、
<<私は十三の時から五六年の間、殆ど自転車気違ひといつてもいい程によく自転車を乗廻はしてゐた。学校の往復は素(もと)より、友達を訪ねるにも、買物に行くにも、いつも自転車に乗つて行かない事はなかつた。当時は自動車の発明以前であつたし、電車も東京には未だない時代だつた。乗物としては芝の汐止から上野浅草へ行く鉄道馬車と、九段下から両国まで行く円太郎馬車位のもので、一番使はれてゐたのは矢張り人力車だつた。箱馬車幌馬車は官吏か金持の乗物で、普通の人には乗れなかつた。尤(もっと)も、囚人を運ぶ馬車はあつて、私達はそれを泥棒馬車と云つてゐたやうに記憶する。
その頃、日本ではまだ自転車製造が出来ず、主に米国から輸入し、それに英国製のものが幾らかあつた。英国製は親切に出来てゐて、堅実ではあつたが、野暮臭く、それよりも泥除け、歯止めなどのない米国製のものが値も廉(やす)かつたし、私達には喜ばれた。
(略)
恐しかつたのは小石川の切支丹(きりしたん)坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあつて、この名があるといふ事は後に知つたが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ヶ(*むずか)しくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも両側の屋敷の大木が欝蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛込む心配のある事だつた。>>
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(写真)切支丹坂の位置には別説もあるが、この坂が切支丹坂と認定され、地図に記載されている。
現在、坂下は地下鉄線路を潜る隧道となり、旧小石川区役所側(竹早町電停)へ抜けられる。
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<<私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途(かへり)、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心を余程うまくとつてゐないと車を倒して了(しま)ふ。坂の登りロと降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。
然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた。
私の自転車はデイトンといふ蝦茶(えびちゃ)がかつた赤い塗りのもので、中等科(*学習院)に進んだ時、祖父に強請(せが)んで買つて貰つた。普通の大人用のもので、最初の頃はペダルに足が届かず、足駄の歯のやうな鉄板を捩子(ねぢ)でペダルに取りつけ、漸(ようや)く足を届かす事が出来た。私はそれで江の島千葉などへ日帰りの遠乗りをした。>>
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(写真)切支丹坂の中途付近から坂上を見上げる。
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(切支丹坂周辺見取り図)江戸初期の切支丹屋敷跡(大目付井上家下屋敷)に隣接する坂のために切支丹坂と呼称されたのだろう。昭和初期の地図と比べても道路はかなり変化している。

「自転車」新潮 昭和26年11月初出、「志賀直哉集」筑摩現代文学大系1976年刊より抜粋。

志賀直哉リンク
京都 山科 志賀直哉邸跡 「山科の記憶」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447362573.html
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posted by t.z at 07:15| Comment(0) | 東京東南部tokyo-southeast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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