2017年03月05日

江戸城 二の丸炎上 長谷川伸「相楽総三とその同志」より

慶応3年10月、京駐在の薩摩藩西郷吉之助(後の隆盛)の密命を帯びて、益満休之助と伊牟田尚平が江戸に下向し、直ちに尊撰討幕派浪士を呼集する。西郷の密命とは、薩摩藩江戸屋敷(抱え屋敷など3カ所)を根城にしての江戸・関東広域攪乱工作であった。相次ぐ武力挑発に嵌った幕府は、ついに薩摩藩邸を大砲まで繰り出して包囲攻撃する(上屋敷内で益満休之助は捕虜となる)。
この報告が大坂に達すると、大坂城(将軍徳川慶喜在城)の幕軍・会津・桑名藩兵は憤激し 京を目指し出撃する。西郷は、京警備中の部隊を鳥羽・伏見の両街道に配備し迎え撃つ。ここに至り、大政奉還・公武合体による幕府勢力の温存を謀る動きを葬り去り、一気に武力倒幕に向かうという西郷の目的が達せられることになる。内実は、御所警備に人数を割かれて薄氷を踏む展開であったようだ。最新装備の幕府伝習隊が突貫し御所を占領していたら、どちらが賊軍になったかわかない。この鳥羽・伏見での戦闘が始まる10日前に、江戸城二の丸が炎上する。

<<慶応三年十二月二十三日朝七ツ半(午前五時)とおぼしき頃、江戸城二の丸に火災が起った。その前々日の十二月二十一日は、大坂城にいる十五代将軍徳川慶喜の将軍職辞退を朝廷で御聞届になった日である。火災は「続徳川実紀」に拠ると、二の丸の御広敷長局辺から起り、燃えひろがって二の丸炎上となったもので、「天璋院様、本寿院様、実成院様、一旦三の丸へ御立退、夫より吹上御苑滝見茶屋へ御立退被遊、唯今西丸へ被為入候段、御広敷御用人並に御近御用人より申し越」とある。天璋院(てんしょういん)は島津斉彬の女(むすめ)で、前々将軍家定の夫人、名は敬子、近衛忠熙の養女である。この火災を失火として幕府は、表面、処罰者を出して繕(つくろ)った。その実は天璋院が薩藩の出身であるから、侍女のうちに薩邸の浪士と気脈を通ずるものあり、手引きして放火させた、こういう鑑定である。
失火か放火か、今でもこれを明白に決めることはむつかしい。しかし、薩州人の伊牟田尚平が主となって、二の丸に忍び入り、放火したのだという説がある。>>
edocninomaru01.jpg
(写真@)本丸汐見坂から眼下に二の丸を望む。手前に僅かに白鳥濠が見える。
edocninomaru02.jpg
(写真A)二の丸庭園。二の丸には本丸御殿より規模の小さい御殿(北側に大奥)が建てられていた。
炎上時には、天璋院・本寿院らが、とりあえず東隣の三の丸に避難している。

<<八官町に大和田という鰻(うなぎ)屋があって、そこへ明治の初年に、時を得た薩州人がよく行った。そこの老母が、徳川様瓦壊の前の年の冬、二の丸が炎上したその火の出どころを知るまい、あれは薩摩の伊牟田(尚平)さんなぞがやったのですよ」と話したのを聞いたのが薩人の市来四郎である。又、寺師宗徳といって薩人、このひとも、江戸城二の丸の放火は伊牟田尚平などがやったのだと、だれから聞いたのかそのころ公けにいっていた。>>
以上、「相楽総三とその同志 長谷川伸全集第7巻」朝日新聞社刊より抜粋。
edocninomaru03.jpg
(写真B)二の丸大奥跡。明治45年に建てられた茶屋(諏訪の茶屋)がある周辺が大奥跡。
edocninomaru04.jpg
(写真C)二の丸の北・東側防御のために設けられた天神濠。本丸と二の丸を繋ぐ梅林坂から撮影。
天神濠は大手門〜下乗門付近まで、二の丸をコの字形に取巻いていたが東側は埋められ存在しない。

また、史料を駆使した村松剛の労作「醒めた炎ー木戸孝允」にも二の丸炎上の経緯が書かれている。
<<十二月二十二日には、江戸城二の丸が炎上した。二の丸には天璋院が住んでいたのでこれも天璋院をつれ去るための薩摩の陰謀とみなされ、伊牟田尚平が指揮をとったという証言ものちに出ている。
伊牟田は翌年斬殺されていて、真相はいまとなってはわからない。いずれにせよこの怪火が、幕閣にあたえた衝撃は大きかった。江戸城は西丸が文久三年六月に焼け、本丸と二の丸も同じ年の十一月に焼失し、西丸と二の丸とが元治元年に再建されたばかりだった。
(略)
やむを得ず幕府は、二の丸と仮立て(仮建築)の西丸とをつくった。その二の丸が焼けて、江戸城は仮立ての西丸だけのみすぼらしい姿になったのである。
薩摩の犯行と信じた幕臣たちが、憤怒に燃え立ったのは当然だろう。二の丸焼失の報が届くまえに、すでに在坂の閣老たちは薩摩藩邸への攻撃を命じていた。
「奸謀すでにあらはれ候上は、草賊どもいたるところ兵威をもつて討滅の策をすみやかに御ほどこしなさるべく候。」(十二月二十四日付)
二の丸炎上につづいて二十三日の夜には、江戸市中取締の酒井藩(庄内十四万石)の屯所が襲撃をうけた。大坂からの右の指令はまだ到着していなかったけれど、ここにいたって江戸の留守政府も決心をかためる。二十五日の江戸は、曇り空だった。幕府はフラソス軍の砲兵大尉プリュネに市街地での砲の使用方法を教えてもらい、四ポンドの施条砲を三田に引っばって行った。庄内藩兵とその配下の新徴組との千人を主力に、上山、鯖江等の人数をあわせて約二千人が薩摩藩邸をかこんだ。>>
以上、村松剛「醒めた炎ー木戸孝允」1987年中央公論社刊より(日経新聞連載初出)抜萃。

edocninomaru05.jpg
二の丸見取り図。写真@からCまでの撮影位置を記入。Dはアップ見送り。
撮影は全て2005年10月20日。
*ふり仮名は原文に附けられていないものもある。
参考 「西郷隆盛全集第6巻」大和書房1980年刊
【関連する記事】
posted by t.z at 04:48| Comment(0) | 江戸城edojo-castle | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。