2017年03月05日

鎌倉 妙本寺の海棠(かいどう) 小林秀雄「中原中也の思ひ出」より

<<鎌倉比企ケ谷(ひきがやつ)妙本寺境内に、海棠(かいどう)の名木があつた。
こちらに来て、その花盛りを見て以来、私は毎年のお花見を欠かした事がなかつたが、先年枯死した。枯れたと聞いても、無残な切株を見に行くまで、何んだか信じられなかつた。それほど前の年の満開は例年になく見事なものであつた。名木の名に恥ぢぬ堂々とした複雑な枝ぶりの、網の目の様に細かく分れて行く梢(こずえ)の末々まで、極度の注意力を以つて、とでも言ひ度(た)げに、綴細な花を附けられるだけ附けてゐた。私はF君と家内と三人で弁当を開き、酒を呑み、今年は花が小ぶりの様だが、実によく附いたものだと話し合つた。(略)
中原と一緒に、花を眺めた時の情景が、鮮やかに思び出された。中原が鎌倉に移り住んだのは、死ぬ年の冬(*1)であつた。前年、子供をなくし、発狂状態に陥つた事を、私は知人から聞いてゐたが、どんな具合に恢復し、どんな事情で鎌倉に来るやうになつたか知らなかつた。久しく殆ど絶交状態にあつた彼は、突然現れたのである。>>
myohonjikaido01.jpg
(写真)小林と中原の往時と変わらず、比企谷妙本寺の境内には海棠の木々が薄紅色の花を咲かしている。小林秀雄の名文に即して花の間断なく落ちる散り様を撮りたかったが、時を誤って海棠は花盛りであった。海棠の撮影は2011年4月13日。

<<晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙つて見てゐた。花びらは死んだ様な空気の中を、まつ直ぐに間断なく、落ちてゐた。樹蔭の地面は薄桃色にべつとりと染まつてゐた。
あれは散るのぢやない、散らしてゐるのだ、一とひら一とひらと散らすのに、吃度(きっと)順序も速度も決めてゐるに違ひない、何んといふ注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考へてゐた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考へか、愚行を挑発されるだらう。花びらの運動は果しなく、見入つてゐると切りがなく、私は、急に厭な気持ちになつて来た。我慢が出来なくなつて来た。
その時、黙つて見てゐた中原が、突然「もういゝよ、帰らうよ」と言つた。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。
「お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。
彼は、いつもする道化た様な笑ひをしてみせた。二人は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇の中で柳が煙つてゐた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「あゝ、ボーヨー、ボーヨー」と喚(わめ)いた。
「ボーヨ一つて何んだ」
「前途茫洋さ、あゝ、ボーヨー、ボ−ヨー」と彼は眼を据ゑ、悲し気な節を付けた。
(略)>>
(*1)中原中也の寿福寺境内(鎌倉市扇ケ谷181番地)への転居は、昭和12年2月27日。死去は8ヶ月と経たぬ同年10月22日午前0時10分(市内若宮大路東側の入院中の鎌倉養生院で)。寿福寺での通夜は22日と23日の2回執り行われている。
      myohonjikaido02.jpg 
(写真)妙本寺祖師堂付近の海棠と大きな自然石。二人が石に腰掛け、黙つて海棠の散るのを見ていたのは、この場所である気がしてならない。中原中也と小林秀雄の関係には、かって一人の女を巡っての「忌はしい」「忘れたい過去」がいつまでも影を落としていた。小林秀雄が、中原と同棲していた長谷川泰子を奪ったのは、彼が23歳の時であった。
同じく「中原中也の思ひ出」から抜萃。
<<私は中原との関係を一種の悪縁であつたと思つてゐる。
大学時代、初めて中原と会つた当時、私は何もかも予感してゐた様な気がしてならぬ。尤(もっとも)も、誰も、青年期の心に堪へた経験は、後になつてからそんな風に思ひ出し度(た)がるものだ。中原と会つて間もなく、私は彼の情人(*長谷川泰子)に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合ふ事によつても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌はしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言ふまでもなく、中原に関する思ひ出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白といふ才能も思ひ出といふ創作も信ずる気にはなれない。
驚くほど筆まめだつた中原も、この出来事に関しては何も書き遺してゐない。たゞ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」といふ数枚の断片を見付けただけであつた。
夢の多過ぎる男が情人を持つとは、首根つこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原は、そんな意味の事を言ひ、さう固く信じてゐたにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変つた、と書いてゐる。が、先きはない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かつたに相違ない。それから八年経つてゐた。二人とも、二人の過去と何んの係(かゝ)はりもない女と結婚してゐた。忘れたい過去を具合よく忘れる為、めいめい勝手な努力を払つて来た結果である。>>
myohonjikaido03.jpg
(写真)妙本寺山門。小林と中原は、おそらく無言でこの門をくぐったはずだ。
 撮影2009年9月。

小林秀雄「中原中也の思ひ出」昭和24年8月「文藝」初出
「小林秀雄全作品17」新潮社2004年刊より抜粋
参考 「中原中也全集別巻 写真・図版篇」角川書店2004年刊

中原中也リンク
京都・丸太町橋際 中原中也「ダダイスト新吉の詩」に出会うhttp://zassha.seesaa.net/article/442518827.html
銀座 有賀写真館 詩人中原中也のあのポートレイトhttp://zassha.seesaa.net/article/442486425.html
posted by y.s at 16:42| Comment(0) | 関東各地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。