
(写真)土佐堀川に架かる淀屋橋(昭和10年架橋)。川向う(中之島)の大阪市役所(右)と日銀支店(左)。
以下、「新版圓生古典落語1」集英社文庫より抜粋。
<<大阪へまいりますと、淀屋辰五郎(*1)という人が一代に巨万の富を築いたという、小揚(こあげ)の人足だったといいますから、まァ自由労務者でございます、それが大変な金を残したという・・・。
大阪へまいりますと有名な、淀屋橋という橋がありますが、あれは辰五郎が一人であすこへ橋を架けたといいます、川上(かみ)へまいりますと浪速(なにわ)橋、川下(しも)へゆくと肥後橋・・・どっちかへまわらないと、中之島へ渡ることが出来ませんので、これへ橋がないと不自由だというので、淀屋が架けましたので屋号をそのままに淀屋橋と申します、そばに淀屋小路(しょうじ)というものがある・・・これが関東(こちら)と関西(むこう)と違いまして、江戸では小路(しょうじ)といわず小路(こうじ)と申します。広小路、あるいは浮世小路、式部小路なんという・・・関西(むこう)では小路(しょうじ)と申します。>>

<<あすこはもと、貧民窟だったんだそうで・・・貧乏人ばかりが住んでおりました。
夜があけてここへ入ります、米屋から薪(まき)屋、炭屋、あるいは魚屋、八百屋、その他、日用品全部の払いは、この淀屋辰五郎が一手に引き受けて払っていたといいますから、ずいぶん大きな慈善事業・・・
しかしそのくらい善い事をしてもやはり華著(かしゃ)にふけったという・・・町人の分際をもって奢(おご)りに長じ、不埼至極(ふらちしごく)であるというので財産は全部・・・幕府(おかみ)へ没収、その上 三箇都(さんがのつ)おかまいという、京、江戸、大阪・・・この三つの都会へ住んではならんというので・・・いやどうも、ひどいもんですね、何も自分で儲けた金を遣(つか)って差し支えはないという・・・現在(いま)の理屈からいやァ馬鹿げたことでどざいますが、昔はそんな事は通らない。(略)>>
(*1)淀屋辰五郎=5代目三郎右衛門広当。初代淀屋常安が大坂夏の陣で徳川方のために働き、一代で財を成し、2代目言当が淀屋の財のみで淀屋橋を架ける。元禄9年(1696)、5代将軍徳川綱吉と側用人(老中)柳沢吉保の時代、幕府は米価格高騰を抑制するため、米買占め商人の捕縛、米没収を命じ、淀屋辰五郎ら商人を闕所(けっしょ*追放)にしている。元禄12年10月には大奥に倹約令が出され、近松の「曽根崎心中」初演のちょうど2年後の宝永2年(1705)5月、またしても豪商淀屋三郎右衛門が闕所処分を受けている。淀屋の命運ここに尽きる。淀屋が店を構えた近辺で、唯一江戸時代初期から現在まで脈々と商命を受け継いでいる大店(おおだな)がある。その大店とは、泉屋(初代理右衛門・淀屋と同時代は平右衛門)である。淀屋のあった北浜4丁目には、現在ぎっしりと財閥住友グループ(=泉屋)のビルが建ち並んでいる。

(写真)淀屋橋南詰西側河岸に建つ跡碑。
(参考写真)淀屋跡の石柱が建つ隣に、この跡碑が設けられている。
参考 「日本史年表」歴史学研究会編・岩波書店1966年刊
「名作のふるさとドラマ風土記」朝日新聞社編1963年刊
三遊亭圓生リンク
羽田 穴守稲荷 落語「死神」六代目三遊亭圓生よりhttp://zassha.seesaa.net/category/1273788-1.html
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