1988年8月1日〜31日に日経新聞朝刊に連載された「私の履歴書」から、京都伏見の陸軍輜重(しちょう)隊に応召した経験を語る部分を抜萃。
<<若狭に帰ると、大飯郡青郷国民学校高野分校に助教の口を見つけてつとめた。分校には住宅がついていたので、M女との同棲をも兼ねる魂胆だった。岡田の生家には弟妹もいるので、とても、女をつれて帰って寝れる部屋はなかったからだ。(略)ところで、ぼくは、赴任してまもない五月に召集令状をうけた。京都伏見の第十六師団第九連隊輜重(しちよう)隊であった。>>

(写真)第十六師団第九聯隊輜重隊営門(正門)。師団街道に西面する。
<<先にもちょっとふれたけれど、明治三十八年に父のつとめた兵科である馬のお守りをするのが役目だった。召集令は兵科の明記はないが、主語のない「召集ヲ命ゼラル」という文章で、某月某日何時までに、該当部隊の営門前に集合せねばならなかった。その部隊も混成部隊だと兵科はさっばりわからない。ぼくの令状にはゴム印で(馬)(*丸の中に馬)と押してあった。父にきくと、「お前も輸卒か」といったが、部隊名は中部第四六部隊とあったので、たとえ行先は輜重隊兵舎でも、輸卒はこりごりである。半信半疑で出かけた。深草の練兵場に近い墨染(すみぞめ)からまもない師団街道に面して輜重隊はあった。>>

(写真)墨染通側の輜重隊営門(南門)が保存されている。水上ら輜重兵卒は、軍馬以下の扱いを受けながら教練、行軍演習に明け暮れる。お馬様のお供で、水上もこの営門も通ったことだろう。門右側に歩哨舎も併せて残されている。
<<六月はじめの暑い日の早朝、門前に集められ、軍曹に点呼されて、営門を入った。オイチ二 オイチニと歩調をとってゆくぼくらは、村から七、八人の入隊だったと思う。送ってきてくれた若狭の人々をふり返りもできなかった。トタン屋根のバラック兵舎に二十二人教育隊員がつめこまれ、Fという軍曹(永遠にこの人の本名を忘れない)が、「今日からお前らは、天皇陛下のお馬をあずかって守りすることになった。お前らは一銭五厘で集められてきたが、お馬はそんなわけにはゆかんぞ。陛下のお馬だから大切にせよ」とどなるようにいって、馬の扱い方を教えてくれた。ぼくは照銀、大八洲という二頭の若馬をあずかることになった。馬房は兵舎とはなれてあって、調練もゆきとどかぬ若馬が何十頭もつながれていた。ぼくの照銀は鼻白の栗毛、大八洲は真っ黒だったが、なぜか「青」とよぶのだそうだ。この真っ黒のほうが性質はよくなくて蹴りぐせがあった。>>

(写真)輜重隊跡地(現・京都教育大学付属高校)に残る旧兵営(?)。
遺構は、陸軍境界石柱を除き、ほとんど残っていない。

(写真)南営門から輜重隊跡地を見る。左奥に「南門と歩哨舎」が見える。
(参考図)東方向が上。地域広域避難図を借用。この地域は、第16師団司令部(藤ノ森の現・聖母学院敷地)を取り巻くように麾下の各聯隊(工兵・騎兵・砲兵等)が駐屯しており、陸軍の一大拠点となっていた。
*水上勉は、この入隊経験を多くの随筆(「京都花歴」など)で語っており、追加写真とともに、ここに載せる予定。
撮影:2011年11月。
水上勉「私の履歴書」筑摩書房1989年5月刊(単行本)。
「新編水上勉全集第二巻」中央公論社1996年刊に収録、抜萃。
水上勉リンク
京都 水上勉が贔屓にした京漬物店 出町なかにしhttp://zassha.seesaa.net/article/385952842.html
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