近江大津の三井寺(園城寺)の法師・興義が、鯉(こい)となって琵琶湖の隅々まで、浅く深くと泳ぎまわる様が描かれる「夢応の鯉魚」から部分抜萃。

(写真)三井寺境内村雲橋。
<<むかし延長(*923年〜931年)の頃、三井寺(*天台宗長等山園城寺)に興義(こうぎ*三井寺の碩学)といふ僧ありけり。絵に巧なるをもて名を世にゆるされけり。嘗(つね)に画く所、仏像山水花鳥を事とせす。寺務の間(いとま)ある日は湖(うみ*琵琶湖))に小船をうかべて、網引釣(あびきつり)する泉郎(あま*漁夫)に銭を与へ、獲(え)たる魚をもとの江に放ちて、其の魚の遊躍(あそ)ぶを見ては画きけるほどに、年を経て細妙(くはしき*精妙)にいたりけり。>>

(写真)三井寺から望む琵琶湖。
<<或るときは絵に心を凝(こら)して眠をさそへば(*眠りにはいると)、ゆめの裏(うち)に江(*湖水)に入りて、大小(さばかり)の魚とともに遊ぶ。覚(さ)むれば即(やが)て見つるままを画(ゑが)きて壁に貼(お)し、みづから呼びて夢応の鯉魚(*夢に感応して夢に見たままを描いた鯉)と名付けけり。
其の絵の妙なるを感(め)でて乞要(こいもと)むるもの前後(ついで)をあらそへば(*順番を争う)、
只(ただ)花鳥山水は乞ふにまかせてあたへ、鯉魚(りぎょ)の絵はあながちに(*むやみに)惜(をし)みて、人毎に戯(たわぶ)れていふ。「生(しょう)を殺し鮮(あざらけ*鮮魚)を喰(くら)ふ凡俗の人に、法師の養ふ魚必ずしも与へず」となん。其の絵と俳諧(わざごと)とともに天下に聞えけり。>>

<<不思義のあまりに、おのが身をかへり見れば、いつのまに鱗金(うろこきん)光を備へて、ひとつの鯉魚と化(け)しぬ。あやしとも思はで、尾を振り鰭(ひれ)を動かして、心のままに逍遥す。まづ長等(ながら)の山おろし(*三井寺の建つ長等の山から吹き降ろす風)、立ちゐる浪に身をのせて、志賀の大湾(おおわだ)の汀(みぎわ)に遊べば、かち人の裳のすそぬらすゆきかひに驚されて、比良(ひら)の高山影うつる、深き水底に潜(かづ)くとすれど、かくれ堅田(かただ)の漁火によるぞうつつなき。ぬば玉(*夜にかかる枕詞)の夜中の潟にやどる月は、鏡の山の峯に清(す)みて、八十(やそ)の湊の八十隈(やそくま)もなくておもしろ。沖津嶋山(*沖ノ島)、竹生嶋、波にうつろふ朱(あけ)の垣(*竹生島の神社の朱塗り玉垣)こそおどろかるれ。>>

(写真)琵琶湖西岸の堅田(かただ)湖岸。琵琶湖大橋が遠くに望める。
<<さしも伊吹の山風に、旦妻船(あさづまふね)も漕出づれば、芦間(*蘆のあいだ)の夢をさまされ、矢橋(やばせ*草津市)の渡りする人の水なれ棹(さを)をのがれては、瀬田の橋守にいくそたび(*なんどもなんども)か追はれぬ。日あたたかなれば浮び、風あらきときは千尋(ちひろ*非常に深い)の底に遊ぶ。>>

(写真)湖北に霞む竹生島。
<<興義これより病癒えて、杳(はるか)の後天年(よわい)をもて死(まか)りける(*寿命を全うして死んだ)。其の終焉(をわり)に臨みて、画(ゑが)く所の鯉魚数枚をとりて湖(うみ)に散せば、画ける魚紙繭(しけん)をはなれて水に遊戯す。ここをもて(*こうしたわけで)興義が絵世に伝はらず(*残っていない)。其の弟子成光(なりみつ)なるもの、興義が神妙をつたへて時に名あり。閑院の殿の障子(しょうじ)に鶏(にわとり)を画きしに、生ける鶏(とり)この絵を見て蹴(け)たるよしを、古き物がたり(*「古今著聞集」)に載せたり。>>
(*)は原文注釈に無いものもあり。
「雨月物語」上田秋成 新潮日本古典集成 昭和54年1月刊より