「信長公記」(著者、太田和泉守)天正八年庚辰(1580年)巻十三に、この経過が短く記されている。
<<天正八年閏三月十六日より菅屋九右衛門(*長頼)・掘久太郎(*秀政)・長谷川竹(*秀一)両三人御奉行として、安土御構(かまえ)の南、新道の北に江(*入江)をほらせられ、田を填(うめ)させ、伴天連(ばてれん)に御屋敷下さる。>>(角川日本古典文庫より)
完成したセミナリヨには諸国より20数名の少年が集まり、寄宿して勉学に勤しんだ。教会堂の屋根は、安土城と同じ水色の瓦で葺くことが許された。
安土セミナリヨ跡(画面右)。「新道の北に江を掘らせ」の入江。
井伏鱒二「安土セミナリオ」より
<<治郎作は信長の家臣であつて安土セミナリオの謂はば遠侍の筆頭である。しかるに信長の薨去、本能寺の炎上、二条城の炎上、信忠の軍は全滅の憂目をのがれない。明智が天下をくつがへした。この天変地異のごとき災厄に際し、安土セミナリオの学生の危難を護るのは治郎作の任務である。
馬は天主堂(*南蛮寺)のわきの棕櫚林のなかにつないであつた。鏡鞍を置き、なめし革の手綱をつけた栗毛の逞(たくま)しげな馬である。宗湛と弥助(*信長の黒人従者)のほか、ロレンソ了西やポルトガル人のイルマンなど、門のところまで治郎作を見送つて来た。そこへ日本人のイルマンが外から帰つて来て、馬にまたがつた治郎作に明智の兵の動勢を伝へた。謀反人は織田方の首級の山の実見(*首実検)をすませ、一万何千ほどに及ぶ兵に勢揃ひをさせて、いま安土へ向けて進発する寸前だといふことであつた。
「治郎作殿、明智の先を越して、はやはやと御座れ」と宗湛が云つた。
治郎作は根限り馬を駆けさせて洛外に出ると、明智の先手の兵よりも先に逢坂山を越えることが出来た。途中、味方の落武者がとぽとぽ歩いて行くのを追ひ越して、瀬田の城下を駆けぬけるところで駒留めを喰らはされた。御上洛道(*信長が京への往還の為に造成した道)のまんなかに二十人ばかりの鎧武者が二段に構へて鎗(やり)ぶすまをつくつてゐた。道ばたには、火縄に火を点じた鉄砲を持つてゐる武者の一隊がゐた。治郎作は馬を留めた。
鎗を持つ兵の旗頭が、「下乗、下乗、名告れ。」と呼ばはつた。
治郎作は馬から降りて、相手の云ふままに正式の名告をした。
日く「信長公の仰せにより、安土セミナリオの遠侍カルサン屋敷へ出仕の番所頭、逸物治郎作で御座る」といふのが正式の名告である。
「おお、おぬしは逸物治郎作殿、その名は我らもかねて聞き及ぶ」と鎗組の旗頭が云つた。
「ついては、おぬしに云うて聞かせよう。いま我らは、瀬田の大橋を焼きすてる急支度のところぢや。依つて、おぬしは橋をば渡れぬものと思へ。謀反人の明智が勢を、一兵たりとも安土へ行かせぬためなのや。しかと合点か。」
「はあ、いかにも。」
「あたら瀬田の名橋を、謀反人がために焼かざあならぬ。おぬしは、橋のほとりの渡船にて渡れ。」
「はあ、心得ました。」
「極道者の明智がため、瀬田のお城にも火をかけざあならぬ。このやうな不祥事は、前代未聞と云はざあならぬやろ。はて、語るも愚痴ぢや。いざ行け。」
「まつぴら御免。」
組頭の目くばせで、鎗を持つた一人の足軽が治郎作の案内に立つた。治郎作は馬には乗らないで、その足軽と肩をならべて御上洛道を瀬田橋の方へ歩いて行つた。道ばたの人家はみんな雨戸をしめてゐた。瀬田の城山の方から、大勢の人夫たちが蟻のやうに引きもきらず荷物を運んで来て、瀬田川の岸につないである幾艘もの船に積みこんでゐた。お城にはまだ火を放つてない。(略)>>
安土セミナリヨ跡から望む安土城址(安土山)。
<<治郎作が安土に帰つたのは、六月三日(バテレンたちの云ふ金曜日)の深更であつた。くたくたに疲れてゐた。カルサン屋敷の前戸のなかにはひつても、冷たい水を飲むまでは咽喉が引きつつて、殆ど口をきく気力を失つてゐた。
「於花女郎は息災か。」
と治郎作は、敷台に尻餅をついて水を飲み終ると、始めて不断のやうな声を出した。
「はあ御番所頭殿、申しわけ御座いませぬ。」治郎作の草鞋(ぞうり)を脱がしながら、番人衆の左内之助が云つた。「於花様は、人に淩(さら)はれました。狼籍者が四五六十人も来て淩つて行きました。かくてはならじと、私、後を追ひましたところ、言語道断、泣き叫ぶ於花様を、狼籍者は岸の船に抱き込んでしまひました。」
「やいやい左内之助、何たることや。」治郎作は敷台にあがつて、また尻餅をついた。
左内之助は面目なささうにうつむいて詳しく話した。それは時刻から云つて、狼籍者がこのカルサン屋敷へ押しかけたのは、安土山の中腹にある阿閉淡路守の別邸が燃えあがつてゐるときであつた。淡路守は信長が本能寺で討死したと知ると、時をうつさず兵を引きつれて羽柴秀吉の居城である江州長浜城に攻めて行つた。その道すがろ、三四五十人の兵を安土に残して安土山の自分の別邸に火をかけさせ、行きがけの駄賃にカルサン屋敷を襲つて於花を淩はせた。もともと於花は河内三箇(さんが)の大名白井家から信長の命令でカルサン屋敷へ養女に来た。このたび白井一族が明智に荷担することになつたので、明智方の淡路守に於花を淩はせたのであつた。(略)
「おん頭(かしら)。御覧のごとく、暴徒のために剥ぎとられ候。セミナリオにても、天井板、畳、鐘楼の鐘など、昨日と今日の二日のうちに、ことごとく剥ぎとられたと思召せ。」
「おお、鐘楼の鐘まで奪はれたか。さすれば、アベ・マリアの鐘も鳴らぬやろ。」
「はあ、おん頭。アベ・マリアの鐘はおろかなこと、セミナリオにては大乱で御座る。バアデレ様は学生もろとも、湖賊にだまされて奥ノ島へ連れて行かれ、今日、夕景にその密使がセミナリオに参りましたげな。」
見るもの聞くもの、みんな意外なことばかりである。セミナリオの学生は、バアデレやイルマンに連れられて避難する道すがら、親切げに話しかける見知らぬ人にすすめられ、船に乗つて湖水の沖の島に渡つた。その親切さうな人は湖賊であつた。二十数人の学生一同とバアデレたちは、いま賊の家の馬小屋に閉ぢこめられてゐる。賊はバアデレの持つてゐる儀式用の銀の道具類に目をつけて、それを奪つた上で場合によつては命も奪ひかねない様子らしい。(略)>>
撮影は2014年7月。
<<翌朝、治郎作がセミナリオヘ出かけると、正面の出入口の扉が無残にも、がたがたに叩き割られてゐた。暴民の仕業である。二階のロレンソ了西のゐた部屋をのぞいて見ると、畳も天井も剥ぎとられて襖の引手もみんな抜きとられてゐた。この襖の引手は、了西法師と昵懇(じっこん)の後藤祐乗(すけのり)の門弟が四季の花を彫つて納めたものである。金の象眼を施した分厚い赤銅(しゃくどう)づくりの引手であつた。二階には、どの部屋にも人影がなくて、荒廃の様は目も当てられなかつた。治郎作は三階の広間をのぞいて見た。すると日本人の数人のイルマンたち居残りの者が、飾を取除いた祭壇の前に集まって朝の祈祷をあげてゐる最中であつた。治郎作は部屋の隅にかしこまつた。(略)>>
セミナリヨ址推定地。信長自身も城下巡察の折、セミナリヨに立ち寄り、少年の奏でるオルガンの音色に
きっと耳を傾けただろう。
<<治郎作は夜になつて日野城(*滋賀県蒲生郡日野町)にたどりついた。翌六月五日、光秀は信長の居城であつた安土城に入つた。光秀の兵がセミナリオを襲つて、三階の広間のハープやオルガンやリュートなどすつかり奪ひとつた。その噂が日野城に伝はつた。鐘楼の鐘は先に暴民が奪ひとつたといふことである。七日には、京から神祇大副の吉田兼利が天朝からの使者として安土城に赴いた。内裏の所在地たる京の町を荒らさないやう、宜しく取りはからへといふ勅命を光秀に伝へに来たのであつた。(略)>>
(*)は原文には無い。ルビは適宜振りました。
「別冊文藝春秋」昭和28年12月より5回連載、初出
「井伏鱒二全集」第5巻1965年新潮社刊より抜粋
井伏鱒二リンク
兵庫篠山 篠山城 井伏鱒二「篠山街道」と立原正秋「謎を秘めた篠山城跡」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442950773.html
山梨 甲府城址の目ざわり石塔 井伏鱒二「甲府−オドレの木の伝説」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447573364.html
難司ケ谷 夏目漱石墓改葬式典 井伏鱒二「五十何年前のこと」からhttp://zassha.seesaa.net/article/448168179.html
荻窪清水町 井伏家に身を寄せる太宰治の元妻小山初代 井伏鱒二「琴の記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443372590.html
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