東大寺最古の堂宇である。天平18年(746)3月(旧暦)以降、法華会(ほっけえ)が慣例的に行われ、延喜年間(901〜923)にはすでに法華堂の名で呼ばれ、近代に至って三月堂とも称されるようになった。
堂内は天平彫刻の宝庫であり、本尊(不空羂索観音菩薩*ふくうけんさくかんのんぼさつ)をはじめとして乾漆像9体は創建以来の像で、日光と月光の2体の塑像は元は絵馬堂(法華堂北門の西)にあったが、享保年間(1716〜1736)頃に移安された。
平成22年(2010)に開始された法華堂須弥壇修理にあたって建築部材の調査が行われ、測定の結果は729年伐採の可能性が示された。この修理の際、塑像4体(日光・月光両菩薩、弁財天、吉祥天)と木造2体(地蔵、不動明王)は、東大寺ミュージアムに移安されている。
以下の山口誓子(やまぐち せいし、俳人、本名 山口新比古1901〜1994)のエッセイは、移安される30年前に綴られたものである。
法華堂(三月堂)。
<<三月堂の内陣にはいるときに、私はいつも右手の手水屋を見る。そこへは廊下で行けるが、行かずに見る。扉が締めてある。それを開けると、中に昔の人々が住んでいるように思われる。私はその建物のただずまいが好きである。それと内陣との間にある内庭が好きだ。雨垂落の溝以外に何もない平らな庭だが、昔、「坪」といったのはまさしくこのような内庭であろうと思われる。私はいつも手水屋と内庭を見る。内陣は真っ暗といっていいほど暗い。大仏殿にはいったときよりずっとずっと暗い。暗さに慣れない眼にいきなり見えたのは、矛を突いて立つ持国天、それから刀を逆手に待った密迹(みつじゃく)力士。正面、不空羂索観音の開いた金色の腕が光っている。金色の短い脚の襞(ひだ)が光っている。足許の金色の蓮が光っている。
月光、日光両菩薩も、西からさしている薄い光線に右頼、合掌の右手が光っている。
本尊の観音像にいうべきことはない。ただ一つ、この観音の立像はすこし前屈みになっている。私はその前屈みにこの観音の慈悲を感ずるのだ。私はこの観音像を彫刻とは見ず、信仰の対象として見るのだ。前屈みといっても、京都椿寺の膝をついた観音像ほどの屈み方ではないが、高きより前へ屈みかけ、かぶさりかけているところに私は慈悲を感ずるのだ。この観音像は両眼のほかに額の真ん中に縦の眼を持っている。ピカソは人間の顔を描くとき、見える面だけでなく、見えない面も描いた。見えない面も見て知っているから描いたのだ。それだから人間の顔も、正面から見たところと、側面や裏面から見たところとを同じ平面に描き込んだ。眼が三つあることもあった。(略)
日光、月光両菩薩を私は彫刻として見る。月光菩薩のほうが好きだ。日光菩薩は顔の剥落によって見劣りするが、そればかりではない。日光の眼は物を見ているし、眼と眼が離れている。それにひきかえ月光の眼は細眼で何も見ていない。眼と眼はやや迫っている。私は物を見ていないその細眼に心をひかれるのだ。薄い光線で見る月光菩薩は、白っぼく幽かであるが、強い光線を当てて撮った写真の月光菩薩は現実のそれとは大いにちがう。天井の天蓋(てんがい)もよく見える。八方放射、勲章のような天蓋だ。それが三つある。もとより中央のは本尊の頭上にあるが、左右のはいずれの頭上にあるのか。日光、月光両菩薩の頭上とも思われ、その前の梵天、帝釈天の頭上とも思われる。左右の天蓋はそんな位置にある。しかし日光、月光の天蓋ではあるまい。この両菩薩は本来三月堂の仏ではなく、いずこからか移された客仏である。しからば左右の天蓋は三月堂創建以来、本尊の脇に侍していた梵天、帝釈天のものである。
三月堂は仏像の庫だ。堂付き仏と客仏との寄り合いだが、私は分け距てなくそれらの仏たちを見る。四天王は堂付き仏だ。東南隅、西南隅、西北隅、東北隅に、持国天、増長天、広目天、多聞天が立っている。持、増、広、多の定石どおり立っている。
内陣を出たとき、私は内庭と手水屋に眼をやって、ふたたびこころの安らぎを覚えた。(略)>>
法華堂の真南にある経庫。手向山八幡宮の西側位置。
「カラー奈良百景」 「山口誓子全集第十巻」1977年明治書院刊に収録
参考:「古寺巡礼 奈良 東大寺」1980年談交社

