構造は、八脚門(やつあしもん)で、屋根は切妻造本瓦葺。幾多の戦災をくぐり抜け、天平時代の東大寺創建以来の豪壮な姿を今に残している。鎌倉時代の東大寺復興の際、組物を一段だけ高くして立派に見えるよう屋根を高くしている。奈良時代の八脚門は、他には、小型化した法隆寺東大門があるだけである。
門の内部は正面中の間だけ天井板のない組入天井。
白洲正子のエッセイ「正倉院と東大寺」(「太陽」1981年7月初出)より。
<<(略)度重なる地震や風害を逃れて、千二百年の星霜を経たのは、まったく奇蹟としか思われない。平重衡(たいらのしげひら)が東大寺に火を放ったときは、奈良の大部分が焦土と化したが、正倉院と転害門だけは助かった。このことは、それらの建築が占める位置にもよるのだろう。東大寺の境内は広いけれども、その広い境内の西北の隅にあるのが正倉院と転害門で、冬のさ中のことであったから、風上に当たっていた。大切な倉のことで、はじめから大仏殿とは離れたところに、火災のことも考えた上で造られたに相違ない。それでも私が子供の頃聞いた話では、正倉院はいつでも大切にされたわけではなく、徳川末期から明治維新へかけての動乱期には、あの高い床下に得体の知れぬ輩(やから)が住みつき、平気で焚き火などしていたという。しばしば盗賊におそわれたこともあり、長い年月の間には、何度もそういう危機に瀕したことを耳にすると、なおさら有り難いことに思われる。>>
柱の各所に、合戦で放たれた鏃(やじり)の痕らしき穴が穿たれている。
白洲正子の平重衡の南都(*奈良)焼討ちについてのエッセイは、経過をかなり簡略化しているので、奈良炎上のシーンを、「平家物語」巻第五第五十句、治承4年(1180)12月の部分から補ってみる。
<<都には、「高倉の宮(以仁王)、園城寺(おんじょうじ*三井寺)へ入御(*脱出)のとき、南都の大衆(*僧)同心して、あまつさへ御迎へに参る条、これもつて朝敵なり。さらば奈良をも攻むべし」といふほどこそあれ、南都の大衆おびたたしく蜂起す。
摂政殿(*藤原基通)より、「存知の旨あらば、いくたびも奏聞にこそおよばめ」と仰せけれども、ひたすら用ゐたてまつらず(*耳を貸そうとしない)。有官の別当忠成(*藤原忠成)を御使にして下されければ、「しや乗物より取つてひき落せ(*乗り物より引きずり落せ)。もとどり切れ」と騒動するあひだ、忠成色をうしなひて逃げのぼる(*顔色なくし逃げ帰る)。つぎに右衛門佐(ゑもんのすけ)親雅(ちかまさ)を下さる。これも、「もとどり切れ」と大衆ひしめきければ、取る物も取りあへず(逃げ帰る)。そのときは勧学院の雑色二人がもとどり切られけり。(略)
太政入道(*平清盛)か様の事ども伝へ聞きて、いかでかよしと思はるべき。
「かつうは(*早急に)南都の狼籍をしづめん」とて、備中の国の住人、瀬尾(せのお)の太郎兼康を大和の国の検非違使(けびいし)に補せられ、兼康五百余騎にて大和の国へ発向したりしを、大衆起つて、兼康がその勢散々に打ち散らし、家の子、郎等(ろうとう)二十余人が首を取つて、猿沢の池のはたにぞ懸けならべたる。
入道相国(*清盛)大きに怒つて、「さらば南都を攻めよ」とて、やがて討手(うって)をさし向けらる。大将軍には入道の四男、頭(とう)の中将重衡(しげひら)、副将軍には中宮亮通盛(みちもり)、その勢四万余騎にて南都へ発向す。南都の大衆も、老少きらはず(*老いも若きも区別なく)、七千余人、兜の緒をしめ、奈良坂本(*奈良坂口)、般若寺(*聖武帝建立、奈良坂の東側)ニ箇所の城郭、ニつの道を切りふさぎ、在々所々に逆茂木(さかもぎ*大木の枝先を敵側に向けたバリケード)をひき、掻楯(かいだて*楯を垣のように並べる)かいて待ちかけたり。平家は四万余騎をニ手にわけて、奈良坂、般若寺二箇所の城郭に押し寄せて、鬨(とき)をどつとぞつくりける。大衆はみな徒歩立(かちだ)ちになつて、打物(*大刀)にてたたかふ。官軍は馬にて駆けむかひ、駆けむかひ、あそこ、ここに、追つかけ、追つかけ、さしつめ、ひきつめ、散々に射れば、おほくの者ども討たれにけり。卯の刻(午前六時頃)に矢合せして(*戦闘開始)、一日戦ひ暮らしぬ。夜に入つて、奈良坂、般若寺二箇所の城郭ともに破れぬ。(略)
夜(よ)いくさ(*夜戦)になりて、暗さはくらし、大将軍頭の中将(*重衡)、般若寺の門の外にうち立ちて、「同士討ちしてはあしかりなん。火を出だせ」と下知(げち)せられけるほどこそあれ、平家の勢のなかに、播磨の国の住人、福井の庄司二郎大夫(たいふ)友方(ともかた)といふ者、楯(たて)をわり、たい松にして、在家(*民家)に火をぞつけたりける。十二月二十八日の夜なりければ、風ははげしく、火元は一つなりけれども、吹きまよふ風におほくの伽藍に吹きつけたり。恥をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良坂、般若寺にて討たれにけり。行歩(ぎょうぶ)にかなへる者は、吉野、十津川の方へ落ちゆく。(略)>>
南都焼亡の詳細は、大仏殿(大仏崩壊)、般若寺に分けて それぞれの独立した項を作る予定。
白洲正子随筆「夢幻抄」1997年世界文学社より抜粋
「平家物語巻第五」1980年新潮社刊より(「百二十句本」平仮名本)
参考:「古寺巡礼 奈良 東大寺」1980年淡交社

