<<大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災直後、どさくさまぎれに憲兵大尉甘粕正彦(あまかすまさひこ、*渋谷憲兵分隊=現在の道玄坂TOHOシネマズ渋谷の位置)と部下五名によって虐殺され、死体を古井戸に投げこまれていた大杉栄とその妻伊藤野枝と彼等の甥(おい)六歳の橘宗一の被害のニュースは、日本国中に驚愕と憤りと恐怖を与えた。大杉栄はアナーキストの第一人者で、フリーラブの唱導者でかつ実践者でもあった。妻の野枝は日本のダダイストの元祖辻潤(つじ じゅん)の妻で二人の子まで産んだのに、大杉との不倫の恋に走った。それを嫉妬した大杉の情人神近市子が大杉を刺し、獄に下るという事件もあった。
野枝は殺された時二十八歳で、辻との間に二人の男の子、大杉との間に五人、十年間に七人の子を産んでいる。大杉は子煩悩だったが、特に長女の魔子(まこ)を溺愛していた。魔子などという変った名前をつけたのは夫婦の共通の反社会的な思想の趣味だったが、二人の他の子供も、エマ、ルイズ、ネストルなど変った名前ばかりつけている。外国の革命家や思想家の名をもじったものばかりであった。(略)>>
大杉ら3名の絞殺事件を報じる大正12年10月9日付の東京日日新聞夕刊。
大杉栄と伊藤野枝夫妻の大震災前後の行動を時系列でまとめた。
1923年(大正12年)
5月1日 大杉栄、パリ郊外のサン・ドニのメーデー集会で演説し当局に逮捕される。
5月3日 ラ・サンテ監獄に収監される。
7月10日 野枝神戸へ。翌11日、仏から国外追放処分を受けた大杉栄の帰国を娘魔子とともに
神戸港に出迎える。翌日帰京。
8月5日 豊多摩郡淀橋町字柏木371番地に移転。直後の9日、野枝は大杉との長男ネストルを出産。
9月1日 関東大震災発生。
9月16日 大杉と野枝、大杉勇の避難先だった神奈川県橘樹(たちばな)郡鶴見町字岸1858番地
大高芳朗方に寄り、次いで勇の移転先の鶴見町東寺尾796番地を訪ねる。
大杉の未妹橘あやめの子宗一を連れて帰宅の途中、自宅付近(南側)の路地で待ち構えていた
憲兵大尉甘粕正彦らに拘引され、連行された九段の憲兵司令本部庁舎において、大杉栄、野枝、
橘宗一(6歳)の3名が虐殺される。
9月24日 虐殺事件が第一師団軍法会議検察官より発表。
9月25日 3人の虐殺記事が禁を解かれ報じられる。午前、大杉勇、安成二郎、服部浜次らが陸軍第一
衛戍(えいじゅ)病院(三宅坂)に3人の遺体を引取りに来る。
9月26日 落合火葬場で茶毘。翌27日午前8時、骨上げをする。
同夜、柏木の大杉宅に文壇思想界の友人らが集まり告別式を行なう。
11月 「婦人公論」「女性改造」が追悼特集、「改造」は「大杉栄追想」特集を組む。
12月8日 甘粕ら虐殺関係者の判決公判。甘粕正彦は懲役10年、曹長森慶次郎は懲役3年、
伍長平井利一、上等兵鴨志田安五郎、上等兵本多重雄は無罪。
12月16日 谷中斎場にて葬儀。参会者約700人。その朝、労働運動社を訪れた右翼団体
大化会会員3名に、3人の遺骨が奪われたため、遺骨なしの葬儀となる。
1924(大正13)年
5月25日 静岡市共同墓地(現在は市営沓谷くつのや霊園)において3人の密葬が行なわれた。
大杉栄の墓。静岡市共同墓地(現在は市営沓谷くつのや霊園)に眠る。
大杉栄に捧げられた荒畑寒村の撰文。
上に同じく、墓碑建立委員会の碑。
沓谷くつのや霊園の大杉栄墓域付近。
「奇縁まんだら終り」瀬戸内寂聴2011年日本経済新聞
参照:「伊藤野枝全集第4巻」2000年学芸書林
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