<<昭和四十七年夏の暑い日、わたしは「正太夫(しょうだゆう)の舌」という小説を書くために、麻布十番に近い三ノ橋に住んでいた和田芳恵(よしえ)さんに同行をたのんで両国駅付近へ行った。正直正太夫の斎藤緑雨が明治三十七年四月十三日午前九時、三十八歳で息を引き取ったのは本所横網町(よこあみちょう)一丁目十七番地であった。緑雨は同番地の「金沢タケ方に寄寓」と筑摩書房版「明治文学全集」の年譜にあるが、これだと、まるで独身の緑雨が世帯主金沢タケ方に下宿したようにみえる。正確な表現ではない。タケは鵠沼の料理屋東屋(あずまや)の女中で、緑雨がそこに滞在中に関係が出来、小田原十字町に転居いらい、本所横網町まで緑雨と世帯をもった(江見水蔭「自己中心明治文壇史」。馬場孤蝶「春窓漫筆」)。>>
緑雨が女中・金澤タケと知り合った湘南鵠沼海岸の旅館・東屋跡(路地の左側一帯)。
<<しかし、緑雨は彼女との同棲を知人にいっさい隠し、手紙の住所もただ「本所」とのみ書いた。彼が肺患の重い身体をひきずって自分で金策に歩いたのもそのためである。金沢タケ方「寄寓」となっているのは、「同棲」をごまかしているからで、それを昭和女子大近代文学研究会の若いグループが素朴にうけとったのは無理からぬこととしても、同研究会資料を文学専門の筑摩書房がチェックもせずにそのまま使っているのは、後進の研究者に誤解のもととなろう。>>
両国の斉藤緑雨住居跡付近。当時の住居表示は本所横網町1丁目17番地。
旧17番地は広く、この周辺を清張は歩きまわっただろう。現在の両国1丁目17〜18番地に該当する。
松本清張が指摘した昭和女子大近代文学研究会の基礎的研究調査により作成された筑摩書房版(1966年初版)「明治文学全集」収録の年譜を大幅に省略して抜粋。
有野照子 斉藤緑雨−文學遺跡巡礼・日本文學篇(101)(「學苑」昭二七・一)
有野照子 斉藤緑雨(昭和女子大近代文學研究室『近代文學研究叢書』第七巻昭三二・一二)
明治33年(1900年)緑雨34歳
12月 療養のため神奈川県鵠沼に転地。旅館東屋に身を置き、ここで金澤タケを知った。
明治34年(1901年)緑雨35歳
4月 小田原の緑新道に転居、一戸を借りて療養生活を続ける。
明治35年(1902年)緑雨36歳
3月頃、小田原の十字町に転居。
12月末 東京に戻り、浅草須賀町に一戸を借りて住む。
明治36年(1903年)緑雨37歳
5月 本郷千駄木林町に移る。
10月 本所横網町1丁目17番地金澤タケ方に寄寓した。
明治37年(1904年)緑雨38歳
3月頃より急速に肺患が重くなる。
4月 肺患が重くなり、11日医師から望みのないことを告げられたため、使いを出して孤蝶の
来訪を乞い、樋口家から預っていた一葉の日記、遺稿の返却と、新聞に載せる死亡広告の
ことを依頼した。
十三日午前九時半頃永眠、野崎左文、馬場孤蝶、輿謝野寛、幸徳秋水、幸田露伴、坂本紅蓮洞
等が集まった。
十四日、孤蝶に口授筆記させた「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也 緑雨齋藤
賢」の死亡広告が「萬朝報」に掲載された。同じ十四日、最も親しかった露伴、寛、孤蝶の三人と
親族四人に送られ、日暮里火葬場で茶毘に附された。
戒名の「春暁院緑雨醒客」は、火葬場への途次、露伴が考え、寛、孤蝶がこれに同意してきまった。
遺言により葬儀は行われず、十六日、本郷駒込東片町の菩提寺大圓(*円)寺で埋骨式が営まれ、
この時は、上田萬年、坪内逍遥、幸田露伴、輿謝野寛、馬場孤蝶、内田魯庵のほか知友多数が
出席、友人代表として露伴が、新詩社代表として寛が弔辞を読んだ。
5月「明星」、6月、「明星」「新小説」が追悼の文を掲げた。
現在の住居表示図より。赤枠内が旧表示17番地。明治中頃は未だ省線(=JR)は両国駅止まりで
隅田川に線路橋は架かっていなかった。
<<馬場孤蝶、幸田露伴、幸徳秋水などのごく親しい友人は緑雨と金沢タケとの同棲を知っていたが、孤蝶以外は書いてない。「その人の身の上を見れば、年齢も既に三十八と云ふのであるのに、妻もなく子もなく、一人で寂しくこの世を送つて」と孤蝶が緑雨のことを書いているのは表面上の辻褄(つじつま)合せである。世帯をもった金沢タケは緑雨の死まで看とり、その後、ひっそりと姿を消した。横網町一丁目十七番地は、嘉永期の江戸切絵図によると、川岸にのぞむ藤堂和泉守の蔵屋敷があり、その前が町家になっている。明治四十一年の「風俗画報」附録「新撰東京名所図絵」の「横網町一丁目」は陸軍被服廠(ひふくしょう)、本所郵便局、総武・東武両線両国停車場などの施設に町内の大半がとられているが、長屋の一画だけは片隅に小さく残っていた。とはいってもその後の関東大震災で本所は壊滅。戦後はまた様相の一変で、「長屋ではあるけれども、三間(ま)に台所付、三坪位は確にあらうと思はれる立派な飛石の敷てある庭のある、何れかの隠居所といふやうな」小綺麗な陋屋(ろうおく)(孤蝶「緑雨醒客」)を和田さんとわたしは探し当てるべくもなかった。炎天の下で歩きまわって、わたしの猿又は汗で太腱(ふともも)の上までめくり上がり、和田さんも浴衣の袖をたくり上げて扇を使い、今日はいやに暑いですな、と懐(ふところ)から何度もたたんだ手拭いをとり出した。(略)>>
明治37年(1904年)4月13日午前、緑雨逝去。向丘の大円寺に葬られる。
大円寺の斎藤緑雨の墓。
「松本清張全集65 日記エッセイ」1996年文藝春秋社刊に収録の「清張日記」より。
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